タイトル:
『岩舩山略縁起』と高勝寺の卒塔婆供養
発表者:林京子氏
要旨:・高勝寺が所在する角礫凝灰岩の岩山である岩船山(172M)は、下野国、下総国、上野国、常陸国(現群馬県・埼玉県・茨城県)の国境近くに位置する。岩船山の北端には「岩船」と呼ばれる船型の巨岩がありにはその上に生身の地蔵が出現したとされる戦国末期1570年ごろから徐々に供養霊場化し、近世に入り日光東照宮の再造営と共に天台宗寺院高勝寺が整備された。春秋の彼岸には多くの人が塔婆供養に訪れる。塔婆を本堂脇に置く=「建てる」のは山の高い所の石地蔵の前に置くのが良いとされ、高ければ高いほど後生が良いとされ、人々は争って裏山の高いところに登った現在は危険なので卒塔婆を下に置く。
・享保4年(1719)岩船地蔵は流行神となり関東各地を巡行し、その後享保8(1723)年には下総銚子で、享保17年(1732)延享元年(1744)明和三年(1766)寛政6年(1794)に江戸で出開帳。
・高勝寺には『下野州岩舩山縁起』と『下野州岩船地蔵菩薩縁起』以外に『下野國岩舩山畧縁起』(以下『略縁起』)が知られ、九州から東北まで版本写本10本が現存。出開帳や居開帳で配布と推測される。これは『仮名縁起絵巻』から生身の地蔵出現の物語と2回の出開帳での御利益を抄出して版行したもの。延享元年4月12日までの記事があるので、それ以降に作成。明和三年の三回目の江戸出開帳のために準備作成されたか。
・『略縁起』は生身の地蔵の出現の話と、享保17年、延享元年の江戸出開帳での霊験が6紙に書かれている。生身の地蔵の出現は金色の光を放つ地蔵に変身と淡々と記述され、再び岩船山に来た明願が見出した自然湧出の霊像
これこそが出開帳の本尊=明願が拝した生身の地蔵である→略縁起のクライマックス
・塔婆は経年劣化してしまうので石塔の悉皆調査を行う→十八世紀末の死者から石塔が建立され、建立者は近隣住民→岩船山は周辺住民による石塔建立・経木塔婆供養の場であることが確認された。
・近代以降交通インフラの整備で参詣者地域が拡大し、敗戦後は戦死者遺族の思いを受け止める場となり高勝寺のバブル期到来→祖霊説をとる学者が来山して高勝寺は死者の霊魂の集まる場所とする通説が形成。
・近世の岩船地蔵尊の現世利益の喧伝の契機は出開帳でありそれを普及したのが『略縁起』。
しかし近隣住民にとっては死者を供養する場であり、彼岸限定のエンタメランドでもあった。
【今回の発表で気が付いた点】
明願の木像は開帳の宝物として作成されたものと考えるべきで、岩船山で死者を供養するのは
「生身の地蔵」でよいのではないか。
【今後の課題】
石塔の再悉皆調査を行い、年号と建立者地域の相関を考察したい。
(文・林京子氏)
*これは2025年11月23日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第161回の要旨です。
*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は12月27日(土)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。

PR