異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
今週の土曜日開催の異類の会のご案内です。
皆さま、よろしくご参加ください。
日時:5月25日(土)14:00
会場:武蔵大学3号館2階3201教室(院生GS)
※最寄り駅=西武池袋線江古田駅/西武有楽町線新桜台駅/都営大江戸線新江古田駅
発表者:中山恵那氏
タイトル:お伽草子を中心とした鼠の擬人化
要旨:
鼠は、人間にとって古くから身近な存在であり数多くの物語や絵画に登場している。また、それらの作品に登場する鼠は、時に害獣であったり縁起の良い存在であったりと様々な面で捉えられており、示すべき面によって異なる表現がとられる。
『鼠草子』、『弥兵衛鼠』、『かくれ里』等、お伽草子には擬人化された鼠が多く登場し、場面や役割によって描き分けがなされている。それらの色や形態などの表現に着目し、人間や鼠以外の擬人化された動物と比較しつつ鼠が擬人化される際の特徴を分析する。また、擬人化と本来の姿の別については文章で詳細に記述される事が少なく挿絵のみに表現される事が多いので、文章と挿絵の齎す効果がいかなるものかという事について考える。
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皆さま、よろしくご参加ください。
日時:5月25日(土)14:00
会場:武蔵大学3号館2階3201教室(院生GS)
※最寄り駅=西武池袋線江古田駅/西武有楽町線新桜台駅/都営大江戸線新江古田駅
発表者:中山恵那氏
タイトル:お伽草子を中心とした鼠の擬人化
要旨:
鼠は、人間にとって古くから身近な存在であり数多くの物語や絵画に登場している。また、それらの作品に登場する鼠は、時に害獣であったり縁起の良い存在であったりと様々な面で捉えられており、示すべき面によって異なる表現がとられる。
『鼠草子』、『弥兵衛鼠』、『かくれ里』等、お伽草子には擬人化された鼠が多く登場し、場面や役割によって描き分けがなされている。それらの色や形態などの表現に着目し、人間や鼠以外の擬人化された動物と比較しつつ鼠が擬人化される際の特徴を分析する。また、擬人化と本来の姿の別については文章で詳細に記述される事が少なく挿絵のみに表現される事が多いので、文章と挿絵の齎す効果がいかなるものかという事について考える。
今井秀和氏
「平田篤胤『仙境異聞』にあらわれた「生物」観」
要旨:
江戸後期の文政年間、常陸国にあるという天狗の棲む世界と、江戸とを行き来していると自称する少年、寅吉が世間を賑わせた。国学者の平田篤胤による『仙境異聞』は、寅吉への聞き取りをまとめて著されたものである。そこには、寅吉が見聞きしたという「天狗」に関する詳細な情報などのほか、鉄を食う獣、四足を生やした鯉といった奇妙な生物をめぐる知識も記録されている。
昨年末に刊行された、平田篤胤著、今井秀和訳・解説『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』(KADOKAWAソフィア文庫)に付した注釈では、紙幅の都合上、仙境における「生物」の関連情報について充分に述べることができなかった。そこで本発表では、『仙境異聞』に載せられた「生物」知識と、和漢の文献に記された情報との比較を通して、寅吉らが紡いだ仙境の「生物」観に迫ってみることとした。
具体的には、寅吉が語った鉄を食う獣、四足を生やした鯉などをめぐる知識のほか、狐・鳥・人などが天狗になるという寅吉の説を検討対象に据えた。また、前近代から近代初頭にかけて実際に広く信じられていた、無生物から生物が生じたり(いわゆる「自然発生説」)、生物Aが生物Bになったり(筆者の造語「異種変態説」)という、近世後期にも強い信憑性を有していた俗説と、寅吉の語る内容との比較を行った。
その結果、上記のような『仙境異聞』の「生物」観は、当時知られていた文献知識と必ずしもイコールではないものの、両者の間に強い類似性が認められることが判明した。つまり、寅吉の語る内容に、彼独自の想像だけではない、同時代的な知識体系からの影響が想定されることが明らかになったと言えるだろう。
また、天狗などが姿を変える、いわゆる「変化」(へんげ)と、生物が姿を変える「変態」との間に、イメージ上の重なり合いおよびズレがあることも分かってきた。ただし、こうした分析の枠組み自体が今日的な認識に基づくものであり、今後の研究の手つきとして、今日的な生物観・生命観と当時のそれとの違いをどのようなかたちで把握し、論述していくのか、という検討課題も浮き彫りになった。
これからの研究の展開としては、今回行ったような、『仙境異聞』にあらわれた「生物」観を腑分けしていく試みを踏まえた上で、寅吉の語る内容と和漢の文献知識との比較作業を通して、寅吉の語りを構成するであろう情報の諸相に迫っていく、という方向性を想定している。
(文・発表者)
※これは4月27日、大東文化会館で開催された第91回例会の報告です。
※次回は5月25日午後2時、江古田の武蔵大学で開催します。
「平田篤胤『仙境異聞』にあらわれた「生物」観」
要旨:
江戸後期の文政年間、常陸国にあるという天狗の棲む世界と、江戸とを行き来していると自称する少年、寅吉が世間を賑わせた。国学者の平田篤胤による『仙境異聞』は、寅吉への聞き取りをまとめて著されたものである。そこには、寅吉が見聞きしたという「天狗」に関する詳細な情報などのほか、鉄を食う獣、四足を生やした鯉といった奇妙な生物をめぐる知識も記録されている。
昨年末に刊行された、平田篤胤著、今井秀和訳・解説『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』(KADOKAWAソフィア文庫)に付した注釈では、紙幅の都合上、仙境における「生物」の関連情報について充分に述べることができなかった。そこで本発表では、『仙境異聞』に載せられた「生物」知識と、和漢の文献に記された情報との比較を通して、寅吉らが紡いだ仙境の「生物」観に迫ってみることとした。
具体的には、寅吉が語った鉄を食う獣、四足を生やした鯉などをめぐる知識のほか、狐・鳥・人などが天狗になるという寅吉の説を検討対象に据えた。また、前近代から近代初頭にかけて実際に広く信じられていた、無生物から生物が生じたり(いわゆる「自然発生説」)、生物Aが生物Bになったり(筆者の造語「異種変態説」)という、近世後期にも強い信憑性を有していた俗説と、寅吉の語る内容との比較を行った。
その結果、上記のような『仙境異聞』の「生物」観は、当時知られていた文献知識と必ずしもイコールではないものの、両者の間に強い類似性が認められることが判明した。つまり、寅吉の語る内容に、彼独自の想像だけではない、同時代的な知識体系からの影響が想定されることが明らかになったと言えるだろう。
また、天狗などが姿を変える、いわゆる「変化」(へんげ)と、生物が姿を変える「変態」との間に、イメージ上の重なり合いおよびズレがあることも分かってきた。ただし、こうした分析の枠組み自体が今日的な認識に基づくものであり、今後の研究の手つきとして、今日的な生物観・生命観と当時のそれとの違いをどのようなかたちで把握し、論述していくのか、という検討課題も浮き彫りになった。
これからの研究の展開としては、今回行ったような、『仙境異聞』にあらわれた「生物」観を腑分けしていく試みを踏まえた上で、寅吉の語る内容と和漢の文献知識との比較作業を通して、寅吉の語りを構成するであろう情報の諸相に迫っていく、という方向性を想定している。
(文・発表者)
※これは4月27日、大東文化会館で開催された第91回例会の報告です。
※次回は5月25日午後2時、江古田の武蔵大学で開催します。
日時:4月27日(土)14:00
伊藤曰、
会場:大東文化会館404号室
※ 大東文化大学ではなく、「大東文化会館」という関連施設です。
東武東上線の東武練馬駅・北口から徒歩5分。
池袋から急行などに乗ってしまうと「東武練馬駅」を通過してしまうので、必ず「各駅停車」にご乗車下さい。
大東文化会館アクセスマップ
https://www.daito.ac.jp/file/block_49513_01.pdf
※ 大東文化大学ではなく、「大東文化会館」という関連施設です。
東武東上線の東武練馬駅・北口から徒歩5分。
池袋から急行などに乗ってしまうと「東武練馬駅」
大東文化会館アクセスマップ
https://www.daito.ac.jp/file/
発表者:今井秀和氏
タイトル: 平田篤胤『仙境異聞』にあらわれた「生物」観
要旨:
江戸後期の文政年間、常陸国にあるという天狗の棲む世界と、江戸とを行き来していると自称する少年、寅吉が世間を賑わせた。国学者の平田篤胤による『仙境異聞』は、寅吉への聞き取りをまとめて著されたものである。そこには、寅吉が見聞きしたという「天狗」に関する詳細な情報などのほか、鉄を食う獣、四足を生やした鯉といった奇妙な生物をめぐる知識も記録されている。
昨年末に刊行された、平田篤胤著、今井秀和訳・解説『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』(KADOKAWAソフィア文庫)に付した注釈では、紙幅の都合上、仙境における「生物」の関連情報について充分に述べることができなかった。本発表では『仙境異聞』に載せられた「生物」知識と、和漢の文献に記された情報との比較を通して、寅吉らが紡いだ仙境の「生物」観に迫ってみたい。
昨年末に刊行された、平田篤胤著、今井秀和訳・解説『
伊藤曰、
上記、今井氏新著については下記URLをご参照ください。
今井秀和(訳・解説)『天狗にさらわれた少年 抄訳仙境異聞』(角川ソフィア文庫、2018年12月) 950円
「アニミズム、パースペクティヴィズム、マルチスピーシーズ――民俗学的/人類学的な異類・妖怪研究のための理論的エクスポジション」(廣田龍平氏)
20世紀から21世紀初頭にいたるまで、人文学・社会科学的な異類・妖怪研究は、「動物は変身しない」「妖怪は実在しない」などの自然科学的知見を前提として進められてきた。しかしこの前提は、民俗誌/民族誌的な話者とは共有されていないことが多い。この「ねじれ」を生じさせる「世界(自然)は一、文化は多」という西洋近代の文化相対主義に対して、「存在論的転回」は、たとえば話者の「動物が変身する」世界と研究者の「動物が変身しない」世界が、人間とさまざまな非人間との関係的実践をとおして、それぞれどのように現実化していき、また概念化されていくのかを問う。世界は、研究者が超越的視点に立てるような「一」のままではなく、「諸世界」として複数化していくもの(しかし別々になるわけではない)なのである。研究者は、話者の世界をそのまま記述することはできないが(翻訳において訳文と原文が異なるように)、みずからの概念を変容させていくことにより、「他者化」していくことはできる(翻訳により言語そのものが変容していく)。このプロセスを続けていくことが重要なのである。
ブリュノ・ラトゥールは、「類型」と「爆弾」という表現によって、「存在論的」と呼ばれる人類学的概念を分けてみることを試みた。今回は前者の代表としてフィリップ・デスコラのアニミズム、後者の代表としてエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴィズムを紹介した。
デスコラは、西洋近代の存在論を構造的に相対化するため、人々が非人間を存在論的にどう捉えるのかを「内面性」と「身体性」に分けて考え、それぞれが人間と似ているか異なるかによって4つの類型があることを示した。なかでも西洋近代の自然主義は、人間と非人間で内面性は違うが身体性は似ているという点で、内面性が似ているが身体性は違うとするアニミズムと対称的反転の関係にある。このようにして、西洋近代の存在論と対等なものとして構成されたアニミズムは、諸存在における霊魂の共通性のみならず、身体の差異について重視している点で、従来のアニミズム概念とは大きく異なるものであった。さらに、諸存在ごとに身体が異なるということは、「変身」という現象を、アニミズム概念の中核に導きいれるものでもあった。人間も非人間も変身しあう世界の概念化は、動物変身譚や異類婚姻譚に新しい理解をもたらしてくれるであろう。
ヴィヴェイロス・デ・カストロの提唱するパースペクティヴィズムは、霊魂が同じで身体が違うとき、世界はどのように変わるのかを示す概念である。アマゾンの諸民族によると、人間からも非人間的な種からも世界は同じように見えるのだが、見える世界は異なっている。このようなパースペクティヴ的存在論を、デスコラのようにアニミズムの一類型と見なす論者もいるが、ヴィヴェイロス・デ・カストロ自身は西洋近代に仕掛けた「爆弾」とみなす。実際、「世界が異なる」という存在論は、「存在論的転回」そのものに組み込まれた考え方でもある。アマゾン世界の概念による西洋近代的人類学の「変身」は、それ自体がパースペクティヴィズムの実践なのである。
アニミズムにおいてもパースペクティヴィズムにおいても、人間と他の種との(一方的ではなく)相互的な関係性が重視されている。これを記述的に実践したとも言えるのが、マルチスピーシーズ民族誌である。人間と他の種がつねに関わり合っているのは、アニミズム世界だけではなく西洋近代的な世界でも同じことである。人間に主体と能動性、それ以外に客体と受動性を割り当てるのではなく、お互いに動かされ合い、共生成していくプロセスが、マルチスピーシーズ民族誌では重視されることになる。
今回の発表は、以上の「講義」のなかに、発表者自身が現在進行形で思考中の、日本における動物妖怪や幽霊などについての見解を織り込みつつ、進められていった。参加者とのディスカッションにおいては、一つの社会に必ずしも存在論的類型が一つだけしかないとは限らないこと、擬人化とアニミズムの違いや類似点、アニミズムにおける超越的視点の不在(しかし全くないわけではない)などが確認された。また、民族誌/民俗誌以外での理論の応用についても意見があり、同時代の事例のみならず、異類が登場する古典文学についてもアニミズムなどで捉えることができるのではないか、という提案がなされた。
本発表で何回か指摘したように、欧米人類学理論に生じたアニミズムやパースペクティヴィズムの概念を日本の諸事例に適用しようとすると、いくつかの点で大きな不一致が見つかる。しかし異なる他者との出会いにおいて概念を変形していくこと、「翻訳」・「変身」させていくことが重要なのだとすれば、私たち自身が比較をとおして、複数形でのアニミズムやパースペクティヴィズムを理論化していくことが望まれるであろう。
(文・廣田龍平氏)
※次回は4月27日(土)14:00、大東文化会館404号室で開催します。
要旨:
今回の発表では、異類・妖怪研究に資する見込みのある人類学理論を、近年のいわゆる「存在論的転回」をベースとして紹介することを試みた。20世紀から21世紀初頭にいたるまで、人文学・社会科学的な異類・妖怪研究は、「動物は変身しない」「妖怪は実在しない」などの自然科学的知見を前提として進められてきた。しかしこの前提は、民俗誌/民族誌的な話者とは共有されていないことが多い。この「ねじれ」を生じさせる「世界(自然)は一、文化は多」という西洋近代の文化相対主義に対して、「存在論的転回」は、たとえば話者の「動物が変身する」世界と研究者の「動物が変身しない」世界が、人間とさまざまな非人間との関係的実践をとおして、それぞれどのように現実化していき、また概念化されていくのかを問う。世界は、研究者が超越的視点に立てるような「一」のままではなく、「諸世界」として複数化していくもの(しかし別々になるわけではない)なのである。研究者は、話者の世界をそのまま記述することはできないが(翻訳において訳文と原文が異なるように)、みずからの概念を変容させていくことにより、「他者化」していくことはできる(翻訳により言語そのものが変容していく)。このプロセスを続けていくことが重要なのである。
ブリュノ・ラトゥールは、「類型」と「爆弾」という表現によって、「存在論的」と呼ばれる人類学的概念を分けてみることを試みた。今回は前者の代表としてフィリップ・デスコラのアニミズム、後者の代表としてエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴィズムを紹介した。
デスコラは、西洋近代の存在論を構造的に相対化するため、人々が非人間を存在論的にどう捉えるのかを「内面性」と「身体性」に分けて考え、それぞれが人間と似ているか異なるかによって4つの類型があることを示した。なかでも西洋近代の自然主義は、人間と非人間で内面性は違うが身体性は似ているという点で、内面性が似ているが身体性は違うとするアニミズムと対称的反転の関係にある。このようにして、西洋近代の存在論と対等なものとして構成されたアニミズムは、諸存在における霊魂の共通性のみならず、身体の差異について重視している点で、従来のアニミズム概念とは大きく異なるものであった。さらに、諸存在ごとに身体が異なるということは、「変身」という現象を、アニミズム概念の中核に導きいれるものでもあった。人間も非人間も変身しあう世界の概念化は、動物変身譚や異類婚姻譚に新しい理解をもたらしてくれるであろう。
ヴィヴェイロス・デ・カストロの提唱するパースペクティヴィズムは、霊魂が同じで身体が違うとき、世界はどのように変わるのかを示す概念である。アマゾンの諸民族によると、人間からも非人間的な種からも世界は同じように見えるのだが、見える世界は異なっている。このようなパースペクティヴ的存在論を、デスコラのようにアニミズムの一類型と見なす論者もいるが、ヴィヴェイロス・デ・カストロ自身は西洋近代に仕掛けた「爆弾」とみなす。実際、「世界が異なる」という存在論は、「存在論的転回」そのものに組み込まれた考え方でもある。アマゾン世界の概念による西洋近代的人類学の「変身」は、それ自体がパースペクティヴィズムの実践なのである。
アニミズムにおいてもパースペクティヴィズムにおいても、人間と他の種との(一方的ではなく)相互的な関係性が重視されている。これを記述的に実践したとも言えるのが、マルチスピーシーズ民族誌である。人間と他の種がつねに関わり合っているのは、アニミズム世界だけではなく西洋近代的な世界でも同じことである。人間に主体と能動性、それ以外に客体と受動性を割り当てるのではなく、お互いに動かされ合い、共生成していくプロセスが、マルチスピーシーズ民族誌では重視されることになる。
今回の発表は、以上の「講義」のなかに、発表者自身が現在進行形で思考中の、日本における動物妖怪や幽霊などについての見解を織り込みつつ、進められていった。参加者とのディスカッションにおいては、一つの社会に必ずしも存在論的類型が一つだけしかないとは限らないこと、擬人化とアニミズムの違いや類似点、アニミズムにおける超越的視点の不在(しかし全くないわけではない)などが確認された。また、民族誌/民俗誌以外での理論の応用についても意見があり、同時代の事例のみならず、異類が登場する古典文学についてもアニミズムなどで捉えることができるのではないか、という提案がなされた。
本発表で何回か指摘したように、欧米人類学理論に生じたアニミズムやパースペクティヴィズムの概念を日本の諸事例に適用しようとすると、いくつかの点で大きな不一致が見つかる。しかし異なる他者との出会いにおいて概念を変形していくこと、「翻訳」・「変身」させていくことが重要なのだとすれば、私たち自身が比較をとおして、複数形でのアニミズムやパースペクティヴィズムを理論化していくことが望まれるであろう。
(文・廣田龍平氏)
※次回は4月27日(土)14:00、大東文化会館404号室で開催します。
日時:3月9日14時
会場:武蔵大学3号館2階3201教室(院生GS)
※最寄り駅=西武池袋線江古田駅/西武有楽町線新桜台駅/都営大江戸線新江古田駅
発表者:廣田龍平氏
タイトル:
アニミズム、パースペクティヴィズム、マルチスピーシーズ――民俗学的/人類学的な異類・妖怪研究のための理論的エクスポジション
要旨:
異類や妖怪は、どのような理論で捉えることができ、またどのように理論化することができるのだろうか? 特に民俗学のように、いろいろな意味で理論化が欠如している分野で妖怪や異類を研究するならば、これは大きな問題になるだろう。ここで注目したいのが、現代人類学のうち、「存在論的転回」と称される一大潮流のなかで、異類(「非人間」nonhumanと呼ばれることが多い)に関する事例が、新しい理論化の中心に位置づけられているということである。今回の発表は、この理論的動向を異類研究者に紹介することを目的とする。
「存在論的」人類学の問題意識は、非人間についての人々の語りや実践を表象や文化、想像力などに還元せず、正面から受け止めるならばどうなるのかを問う。どのようにすれば非人間の世界を描き出せるのか? そのためにはどのように私たち自身が変わっていかなければならないのか?
今回の発表では、20世紀末から盛んになってきたこの潮流の諸前提を概観したうえで、ブリュノ・ラトゥールが提示した2つの主題「類型」と「爆弾」に沿って、代表的な理論であるアニミズムとパースペクティヴィズムを解説し、副主題としてマルチスピーシーズ研究に簡単に触れてみたい。ちなみに本発表の目的は、あくまで主題の提示(exposition)であり、いかに主題を展開するかについては、発表者自身の研究の一部を示すだけになる。
※来聴歓迎!
会場:武蔵大学3号館2階3201教室(院生GS)
※最寄り駅=西武池袋線江古田駅/西武有楽町線新桜台駅/都営大江戸線新江古田駅
発表者:廣田龍平氏
タイトル:
アニミズム、パースペクティヴィズム、マルチスピーシーズ――民俗学的/人類学的な異類・妖怪研究のための理論的エクスポジション
要旨:
異類や妖怪は、どのような理論で捉えることができ、またどのように理論化することができるのだろうか? 特に民俗学のように、いろいろな意味で理論化が欠如している分野で妖怪や異類を研究するならば、これは大きな問題になるだろう。ここで注目したいのが、現代人類学のうち、「存在論的転回」と称される一大潮流のなかで、異類(「非人間」nonhumanと呼ばれることが多い)に関する事例が、新しい理論化の中心に位置づけられているということである。今回の発表は、この理論的動向を異類研究者に紹介することを目的とする。
「存在論的」人類学の問題意識は、非人間についての人々の語りや実践を表象や文化、想像力などに還元せず、正面から受け止めるならばどうなるのかを問う。どのようにすれば非人間の世界を描き出せるのか? そのためにはどのように私たち自身が変わっていかなければならないのか?
今回の発表では、20世紀末から盛んになってきたこの潮流の諸前提を概観したうえで、ブリュノ・ラトゥールが提示した2つの主題「類型」と「爆弾」に沿って、代表的な理論であるアニミズムとパースペクティヴィズムを解説し、副主題としてマルチスピーシーズ研究に簡単に触れてみたい。ちなみに本発表の目的は、あくまで主題の提示(exposition)であり、いかに主題を展開するかについては、発表者自身の研究の一部を示すだけになる。
※来聴歓迎!