異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
石井研堂は異類合戦物をテーマにした『万物滑稽合戦記』を明治34年(1901)に刊行した。本書は今日入手困難であるが、異類物の歴史を考える上で有益な資料だと思われる。そこで本発表では本書の概要とその今日的な価値とについて私見を述べた。
明治期、近世文学があまり顧みられず湮滅するのを危惧して刊行された正続100冊の帝国文庫の1冊として刊行されたものである。
研堂は本書に先行して前年明治33年に続帝国文庫『日本漂流全集』を出している。研堂は日本の漂流文学の先駆者と評されるだけあって、今日でも漂流関係の著述中で言及されることが多い。
しかし『万物滑稽合戦記』については存命中からほとんど評価されずに今日に至っている。
少年向けの読み物多数執筆したこと、戦前の明治文化研究を主導したこと、錦絵の収集・研究、漂流記の収集・読み物化が高く評価されているが、それとは対象的である。
本書に収録される作品はお伽草子・仮名草子・浮世草子・黄表紙・洒落本・戯文である。
これらは戯作とそれ以前の作品、またその周辺の戯文である。
研堂は『明治事物起原』(大正15年改訂・春陽堂版以降)において万亭応賀に代表される明治期の戯作を「低級文学」と酷評しているが、『万物滑稽合戦記』に収録される諸作品はいずれも「低級文学」と評される類のものであり、自身の編著を否定したものとも受け取れる。
ただそれは、西洋文学の影響下に生まれた近代小説に対する相対的なものであったようである。
研堂は児童向け読み物を数多く手掛けたが、中でも『動物会』(明治22年)や「虫国議会」(『小国民』3-13~4-24、明治24~25年、所収)のような、応賀の『虫類大議論』(明治6年)を彷彿させる異類物を創作している。
また『日本全国 国民童話』(明治44年)序文には童話(昔話・伝説の類)の目的は幼童の教育・啓蒙ではなく「心意上に慰安と歓楽」をもらたすことであると説いている。
これは『万物滑稽合戦記』収録作品の価値を「たゞ、あゝ面白いと云ふ勝鬨(かちどき)の声をあげしめんことを期するのみ」という点に求めていることと同じである。
つまり、本書収録の異類合戦物作品は一種の児童読み物として研堂に捉えられていたのではないかと思われる。
研堂の児童向けの作品は『理科十二ヶ月』や『少年工芸文庫』からも知られるように、理科や工作、博物といった面を重視していた。
多種多様な擬人化された生物がそれぞれの特性を生かして合戦を繰り広げる描写は十分その方面の魅力を伝えるものであった。
文学としては低級だが、児童読み物としては意義のあるものと評価していたのではないかと思われる。
では今日における本書の価値はどこにあるのだろうか。
1つはその先駆性である。室町期から幕末期に至る物語作品から擬人化キャラクターたちが合戦を繰り広げるものを収集し、異類合戦物の大枠を捉えている。
もう1つはその資料性である。本書所収の作品はもともと価値が低く、今日散逸してしまったものが多い。本書以外では翻刻されていないものが10作品、現在所在不明のものが5作品ある。
本書によって示された異類合戦物諸編を手かがりに、今後は錦絵類を含めた各ジャンルの該当作品を発掘・蒐集していくことが必要となろう。
以上、伊藤慎吾「石井研堂編『万物滑稽合戦記』の再評価」(2013年3月例会)の発表要旨でした。
4月例会については追ってお知らせします。
明治期、近世文学があまり顧みられず湮滅するのを危惧して刊行された正続100冊の帝国文庫の1冊として刊行されたものである。
研堂は本書に先行して前年明治33年に続帝国文庫『日本漂流全集』を出している。研堂は日本の漂流文学の先駆者と評されるだけあって、今日でも漂流関係の著述中で言及されることが多い。
しかし『万物滑稽合戦記』については存命中からほとんど評価されずに今日に至っている。
少年向けの読み物多数執筆したこと、戦前の明治文化研究を主導したこと、錦絵の収集・研究、漂流記の収集・読み物化が高く評価されているが、それとは対象的である。
本書に収録される作品はお伽草子・仮名草子・浮世草子・黄表紙・洒落本・戯文である。
これらは戯作とそれ以前の作品、またその周辺の戯文である。
研堂は『明治事物起原』(大正15年改訂・春陽堂版以降)において万亭応賀に代表される明治期の戯作を「低級文学」と酷評しているが、『万物滑稽合戦記』に収録される諸作品はいずれも「低級文学」と評される類のものであり、自身の編著を否定したものとも受け取れる。
ただそれは、西洋文学の影響下に生まれた近代小説に対する相対的なものであったようである。
研堂は児童向け読み物を数多く手掛けたが、中でも『動物会』(明治22年)や「虫国議会」(『小国民』3-13~4-24、明治24~25年、所収)のような、応賀の『虫類大議論』(明治6年)を彷彿させる異類物を創作している。
また『日本全国 国民童話』(明治44年)序文には童話(昔話・伝説の類)の目的は幼童の教育・啓蒙ではなく「心意上に慰安と歓楽」をもらたすことであると説いている。
これは『万物滑稽合戦記』収録作品の価値を「たゞ、あゝ面白いと云ふ勝鬨(かちどき)の声をあげしめんことを期するのみ」という点に求めていることと同じである。
つまり、本書収録の異類合戦物作品は一種の児童読み物として研堂に捉えられていたのではないかと思われる。
研堂の児童向けの作品は『理科十二ヶ月』や『少年工芸文庫』からも知られるように、理科や工作、博物といった面を重視していた。
多種多様な擬人化された生物がそれぞれの特性を生かして合戦を繰り広げる描写は十分その方面の魅力を伝えるものであった。
文学としては低級だが、児童読み物としては意義のあるものと評価していたのではないかと思われる。
では今日における本書の価値はどこにあるのだろうか。
1つはその先駆性である。室町期から幕末期に至る物語作品から擬人化キャラクターたちが合戦を繰り広げるものを収集し、異類合戦物の大枠を捉えている。
もう1つはその資料性である。本書所収の作品はもともと価値が低く、今日散逸してしまったものが多い。本書以外では翻刻されていないものが10作品、現在所在不明のものが5作品ある。
本書によって示された異類合戦物諸編を手かがりに、今後は錦絵類を含めた各ジャンルの該当作品を発掘・蒐集していくことが必要となろう。
以上、伊藤慎吾「石井研堂編『万物滑稽合戦記』の再評価」(2013年3月例会)の発表要旨でした。
4月例会については追ってお知らせします。
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日時:3月12日(火)14:00~17:00
場所:専修大学 神田キャンパス 7号館6階763教室
※最寄り駅―地下鉄の九段下駅あるいは神保町駅
7号館―一番高い建物のわきにある、比較的あたらしいグレーの建物
http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/profile/access/kanda_campus.html
場所:専修大学 神田キャンパス 7号館6階763教室
※最寄り駅―地下鉄の九段下駅あるいは神保町駅
7号館―一番高い建物のわきにある、比較的あたらしいグレーの建物
http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/profile/access/kanda_campus.html
伊藤慎吾
「石井研堂編『万物滑稽合戦記』の再評価」
要旨:
『万物滑稽合戦記』は続帝国文庫の1冊として石井研堂が明治34年に刊行したものである。
近年、お伽草子研究を中心に、中世から近世にかけての〈異類合戦物〉の物語・絵画が注目されるようになってきた。石井はいち早くこれら群小の諸作品を〈万物滑稽合戦記〉というタームで拾い集め、紹介したのだった。
本発表では本書の概要とその意義について所見を述べてみたいと思う。
※初めて参加を希望される方は、一応、下記にご一報くださるとありがたいです。
本ブログ右側のプロフ記載の連絡先、もしくは@NarazakeMiwa(ツイッターID)
『おおかみこどもの雨と雪』(以下「おおかみこども」)は大学生の花と「彼」と呼ばれるニホンオオカミの血を引く男が出会い、二人の間に雪と雨という子供が生まれ、そしてその二人の子供たちがそれぞれ自立しハナの手元を離れていくまでの13年間の物語である。
本研究のねらいは物語としての「おおかみこども」に注目し、話型の解釈や、登場人物の姿を民俗学的・文化人類学的に解釈するものである。
まず確認しておきたいのは、この物語は異類婚の話型をもつことである。異類婚の話型とは昔話の「魚女房」を基準とすると以下の六つの法則がある。
第1法則 異類と人間とが出会う。
第2法則 異類が人間となり一方的に人間に求婚し両者が結婚する。
第3法則 結婚後のタブーがある。
第4法則 人間がタブーを犯し異類の本性が発覚する。
第5法則 本性が発覚すると結婚が破綻し両者は離別する。
第6法則 後日譚がある。
「おおかみこども」では、第1法則は、花の夢の中で、実現される。第2法則は逆になっていて、花という人間の女が積極的に異類に接近し結婚する。第3・第4法則はないが、第5・第6法則はある。特に「おおかみこども」の物語はこの第6法則である後日譚が異様に長いものになっている。言わば、異類婚の話型の後日譚が異様に膨らんだ物語といってよい。ただし、上記の異類婚の法則は異類女房譚をもとにしているため、「おおかみこども」の彼は異類婿であるから、本来は異類婿譚をもとに法則を考えなくてはならない。しかし、異類婿譚の場合、猿婿入りや犬婿入りの多くは異類婿は殺され、子孫が残される話ではない。その点を考えると、三輪山神話をもとに異類婚の法則を作り直し、改めて「おおかみこども」と照らし合わせる必要があろう。
次に「おおかみこども」の物語を読み解くうえで重要なのは花の人物像である。
筆者は花を巫女であると位置づけた。なぜなら、花は巫女的な特殊な能力をいくつかもつことが彼女のしぐさや精神性に確認できるからである。
彼女の特殊能力の一つは他界とつながることができることである。例えば物語の中で花の夢が三回描かれる。イ)オープニング、ロ)彼の死後の直後、ハ)息子の雨が山へ行ってしまったとき。イは予知夢。これから出会うであろう彼をシルエットで見る。ロは死んだ彼を他界の境界まで追う。ただし、花は彼には追いつけず、そのままこちらの世界へ戻ってくる。ハは死者である彼と会う。この死者と会うというのが重要である。すると、彼女は憑依型の巫女ではなく、脱魂型の巫女に近いのではないか。つまり花は他界とこちらの世界を夢の中ではあるが行き来できる特殊な能力をもつ女性なのだ。
彼女の特殊能力のもう一つは〈笑い〉である。彼女の〈笑い〉は呪術的な行為である。例えば、パプアニューギニアのカルリ族の歌合戦「ギサロ」では、聴衆が対戦相手側の歌い手たちを笑わせるという行為があるが、なぜなら、笑いによって、相手側の歌に引き込まれないようにするためである。ここでは、笑いが歌のもつ呪力に対抗する行為として、つまり、相手の歌の力に抗う行為として存在する。〈笑い〉は呪力に抗う行為である。すると、花の〈笑い〉は、このカルリ族のギサロにおける笑いのはたらきと同じように思われる。なぜなら、困難極まりないとき、或いは、悲しみの絶頂のとき、花は〈笑う〉のだが、〈笑う〉ことによって、花はその困難さや悲しさに抗っていると思われる。花の〈笑い〉は、苦しみや悲しみを無化しようとする行為であり、これはリアリズム的な行為ではなく、むしろ呪術的と言える。
以上のように花という女性は巫女的な特殊能力をもつ人物であるのだが、問題は、なぜ「おおかみこども」の物語に花という巫女が呼ばれたのかということである。特に、この物語は子育ての物語であるとされており、なぜ子育ての物語に巫女なのか、また、なぜ異類婚なのか。今後はこれらの問いを明らかにしていく必要がある。
以上、飯島奨氏「『おおかみおとこの雨と雪』を読む」(2013年2月例会)の発表要旨でした。
本研究のねらいは物語としての「おおかみこども」に注目し、話型の解釈や、登場人物の姿を民俗学的・文化人類学的に解釈するものである。
まず確認しておきたいのは、この物語は異類婚の話型をもつことである。異類婚の話型とは昔話の「魚女房」を基準とすると以下の六つの法則がある。
第1法則 異類と人間とが出会う。
第2法則 異類が人間となり一方的に人間に求婚し両者が結婚する。
第3法則 結婚後のタブーがある。
第4法則 人間がタブーを犯し異類の本性が発覚する。
第5法則 本性が発覚すると結婚が破綻し両者は離別する。
第6法則 後日譚がある。
「おおかみこども」では、第1法則は、花の夢の中で、実現される。第2法則は逆になっていて、花という人間の女が積極的に異類に接近し結婚する。第3・第4法則はないが、第5・第6法則はある。特に「おおかみこども」の物語はこの第6法則である後日譚が異様に長いものになっている。言わば、異類婚の話型の後日譚が異様に膨らんだ物語といってよい。ただし、上記の異類婚の法則は異類女房譚をもとにしているため、「おおかみこども」の彼は異類婿であるから、本来は異類婿譚をもとに法則を考えなくてはならない。しかし、異類婿譚の場合、猿婿入りや犬婿入りの多くは異類婿は殺され、子孫が残される話ではない。その点を考えると、三輪山神話をもとに異類婚の法則を作り直し、改めて「おおかみこども」と照らし合わせる必要があろう。
次に「おおかみこども」の物語を読み解くうえで重要なのは花の人物像である。
筆者は花を巫女であると位置づけた。なぜなら、花は巫女的な特殊な能力をいくつかもつことが彼女のしぐさや精神性に確認できるからである。
彼女の特殊能力の一つは他界とつながることができることである。例えば物語の中で花の夢が三回描かれる。イ)オープニング、ロ)彼の死後の直後、ハ)息子の雨が山へ行ってしまったとき。イは予知夢。これから出会うであろう彼をシルエットで見る。ロは死んだ彼を他界の境界まで追う。ただし、花は彼には追いつけず、そのままこちらの世界へ戻ってくる。ハは死者である彼と会う。この死者と会うというのが重要である。すると、彼女は憑依型の巫女ではなく、脱魂型の巫女に近いのではないか。つまり花は他界とこちらの世界を夢の中ではあるが行き来できる特殊な能力をもつ女性なのだ。
彼女の特殊能力のもう一つは〈笑い〉である。彼女の〈笑い〉は呪術的な行為である。例えば、パプアニューギニアのカルリ族の歌合戦「ギサロ」では、聴衆が対戦相手側の歌い手たちを笑わせるという行為があるが、なぜなら、笑いによって、相手側の歌に引き込まれないようにするためである。ここでは、笑いが歌のもつ呪力に対抗する行為として、つまり、相手の歌の力に抗う行為として存在する。〈笑い〉は呪力に抗う行為である。すると、花の〈笑い〉は、このカルリ族のギサロにおける笑いのはたらきと同じように思われる。なぜなら、困難極まりないとき、或いは、悲しみの絶頂のとき、花は〈笑う〉のだが、〈笑う〉ことによって、花はその困難さや悲しさに抗っていると思われる。花の〈笑い〉は、苦しみや悲しみを無化しようとする行為であり、これはリアリズム的な行為ではなく、むしろ呪術的と言える。
以上のように花という女性は巫女的な特殊能力をもつ人物であるのだが、問題は、なぜ「おおかみこども」の物語に花という巫女が呼ばれたのかということである。特に、この物語は子育ての物語であるとされており、なぜ子育ての物語に巫女なのか、また、なぜ異類婚なのか。今後はこれらの問いを明らかにしていく必要がある。
以上、飯島奨氏「『おおかみおとこの雨と雪』を読む」(2013年2月例会)の発表要旨でした。
異類の会 第34回例会の御案内
日時:2月25日(月)14:00~17:00
場所:専修大学 神田キャンパス 7号館6階764教室
※最寄り駅―地下鉄の九段下駅あるいは神保町駅
7号館―一番高い建物のわきにある、
比較的あたらしいグレーの建物
http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/profile/access/kanda_campus.html
飯島奨氏
「『おおかみこどもの雨と雪』を読む」
要旨:
2012年夏に公開されたアニメーション映画『おおかみこどもの雨と雪』は、大学生のハナと「彼」と呼ばれるオオカミの血を引く男が出会い、二人のあいだに雪と雨というの二人の子供が生まれ、そしてその二人の子供たちがそれぞれの道へ自立しハナの手元を離れていくまでの13年間の物語である。
※初めて参加を希望される方は、下記にご一報くださるとありがたいです。
本ブログ右側のプロフ記載の連絡先、もしくは@NarazakeMiwa(ツイッターID)
日時:2月25日(月)14:00~17:00
場所:専修大学 神田キャンパス 7号館6階764教室
※最寄り駅―地下鉄の九段下駅あるいは神保町駅
7号館―一番高い建物のわきにある、
比較的あたらしいグレーの建物
http://www.senshu-u.ac.jp/univguide/profile/access/kanda_campus.html
飯島奨氏
「『おおかみこどもの雨と雪』を読む」
要旨:
2012年夏に公開されたアニメーション映画『おおかみこどもの雨と雪』は、大学生のハナと「彼」と呼ばれるオオカミの血を引く男が出会い、二人のあいだに雪と雨というの二人の子供が生まれ、そしてその二人の子供たちがそれぞれの道へ自立しハナの手元を離れていくまでの13年間の物語である。
この物語は人間の女とオオカミの男とが結婚するという異類婚の話型が見られるが、なぜ今異類婚なのか、そして、なぜこの異類婚の物語がアニメーション映画として成功しているのか、また、この異類婚の物語は裏側にどのような原理をもつのか、以上のような問いにせまってみたい。
※初めて参加を希望される方は、下記にご一報くださるとありがたいです。
本ブログ右側のプロフ記載の連絡先、もしくは@NarazakeMiwa(ツイッターID)
本発表では古典作品に登場するネコを取り上げ、
上代から中世初期までのネコの認識を時代ごとに追究した。
飼いネコは、奈良時代に大陸から日本に渡ってきたとされる。平安中期頃まではまだ希少な動物であったと目され、『枕草子』、『源氏物語』、『狭衣物語』、『更級日記』などの中古の古典作品には、貴族達に寵愛される愛玩動物として登場しており、紐で繋いで飼われるなどしている。
平安末期以降になると、ネコの生息数が増えたと目される。『今昔物語集』に於いてもネコが希少な動物であるという認識は希薄になっている。またこの時期、「のらねこ」という言葉も出現しており、野生化したネコの発生も推察される。
ところで、実は「猫また」などのネコの怪異譚が出現する時期は、「のらねこ」の発生した時期と重なっている。このことを受けて、ネコが希少な動物であった時代とは異なって、ネコに関して人々の眼の届かない側面が生じてきたことがネコの怪異譚が出現の要因の一つとして指摘した。
現実に於ける人とネコの関わりの在り方の変遷が、ネコにまつわる認識や表現、言説にどのように連関しているか。
今後は考古学の成果にも眼を向けつつ明らかにして行きたい。
以上、平成25年1月28日開催(於・青山学院大学)の第33回例会における発表要旨です(発表者:杉山和也氏)。
※次回は2月25日14時に開催します。
上代から中世初期までのネコの認識を時代ごとに追究した。
飼いネコは、奈良時代に大陸から日本に渡ってきたとされる。平安中期頃まではまだ希少な動物であったと目され、『枕草子』、『源氏物語』、『狭衣物語』、『更級日記』などの中古の古典作品には、貴族達に寵愛される愛玩動物として登場しており、紐で繋いで飼われるなどしている。
平安末期以降になると、ネコの生息数が増えたと目される。『今昔物語集』に於いてもネコが希少な動物であるという認識は希薄になっている。またこの時期、「のらねこ」という言葉も出現しており、野生化したネコの発生も推察される。
ところで、実は「猫また」などのネコの怪異譚が出現する時期は、「のらねこ」の発生した時期と重なっている。このことを受けて、ネコが希少な動物であった時代とは異なって、ネコに関して人々の眼の届かない側面が生じてきたことがネコの怪異譚が出現の要因の一つとして指摘した。
現実に於ける人とネコの関わりの在り方の変遷が、ネコにまつわる認識や表現、言説にどのように連関しているか。
今後は考古学の成果にも眼を向けつつ明らかにして行きたい。
以上、平成25年1月28日開催(於・青山学院大学)の第33回例会における発表要旨です(発表者:杉山和也氏)。
※次回は2月25日14時に開催します。