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異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
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タイトル:
 異類の造形:たとえば大蛇、あるいは獅子

発表者:
 永島大輝

要旨:
 祭礼の中の造形物や図像におけるいくつかの共通項から、現在では失われたその「お約束」の意味を捉える。具体的には今回の発表では、主に雨乞い(「脚折雨乞い」「ジャガマイタ」)での大蛇の造形をもとに共通項を見ていく。そうしてある類型を見出すと蛇に耳があり、尾に剣がついていることが言える。
 まず、ただの蛇ではない大蛇には耳があることだが、伝説や世間話として報告や研究できる。伊藤龍平『ヌシ』や南方熊楠の『十二支考』でも言及があり、従来の通り、俗信や口承文芸として研究できる。
 次に、力のある異類の尻(尾?)に剣が造形されることである。現在、何故かはわからないが造形されている。事例から異形とくに力を持っていることが想定される。言葉というより造形による伝承。四国の牛鬼の尻にも剣があるほか、尻に剣のようなものが見える獅子舞についても紹介した。
 近世期には共通の理解があったものと思われる。近世の怪談本の『諸国百物語』一の十三/越前の国永平寺の新発意が事や『新御伽婢子』三の一則身毒蛇などには尾に剣のある蛇の挿絵がある。ただしこれは、一つ目のものと違い俗信として研究できるのだろうか。少なくとも本文では記述されず、民間伝承でも巨大な蛇に剣が生ずるようなことは見られない。もちろんヤマタノオロチと剣など、蛇と剣は無縁のものではないはずではあるが、芸能レベルの知識が生活の中まで下りてきているとは言えないと思われる。どう扱っていくべきか、今後の課題としたい。
 質疑では妖怪@老中さんより大本敬久「牛鬼論 妖怪から祭礼の練物へ」の論文をご教示いただいた。牛鬼の尾の剣は、折れると人が死ぬなどの俗信をともなうことがあるようだ。
(文・永島大輝氏)

*これは10月20日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第148回の要旨です。
*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は11月23日(土)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。

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タイトル:
 最強の薬を手に入れたと思ったら戯文だった件。
 ― 薬に模した教化戯文における表現の方法に関する小攷 ―


発表者:
 羽鳥佑亮
要旨:

 江戸時代の雑多な戯文のうち、薬の喧伝に模したもの、殊に何らかの教化の方便となす戯文に注目し、いかなる表現によって薬の喧伝らしくしているかを、こころみに考察した。


 愚考には、大きく、「枠組」、「内容」、「語感」とにその表現を分け、さらに、「枠組」のなかに、「形式」(形式に文言をあてはめる)、「構成」(構成に文言を羅列する)を、「内容」のなかに、「連想」(喧伝の文言から連想される教化の文言の配置)、「音韻」(喧伝の文言に適した音韻の教化の文言の配置)を、「語感」のなかに、「掛詞」(喧伝の文言と教化の文言を同じ音にする)、「譬喩」(喧伝の文言と教化の文言を同じ音にする)を、それぞれ設け整理した。


 質疑においては、片仮名での名称を用いた場合や、それぞれの文言がいずれも「らしさ」をもっていないが組合わせてはじめて「らしさ」が漂う場合をいただいたが、今回とりあげた薬の喧伝に模したものでは応用がきかず、答えを導くことができず心残りである。今後の課題としたい。また、薬の喧伝に模した戯文を集めたものとして、江戸時代後期『視薬霞報條』を御教示いただいた。感謝を申し上げる。


 こころみの論としたが、現状においては、いずれの分野の俎上にも載せ難い。今後、論の位置づけを整備していきたい。

(文・羽鳥佑亮氏)

*これは7月28日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第145回の要旨です。
*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は8月31日(日)17時にオンライン(Zoom)で開催予定です。

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第142回開催のご案内

日時:3月31日(日)15:00 

会場:オンライン(Zoom)

タイトル:近世噺本と笑い話
     ―鬼と天狗を中心に―


発表者:齊藤 竹善氏
 
要旨:
 「噺本」は、近世において活発に出版された笑い話集である。これらの噺本は民間伝承との関係も深い。特に、「噺本の祖」と位置付けられる『醒酔笑』は、談義僧であった安楽庵策伝が、「小僧の時より、耳にふれておもしろくおかしかりつる事」を書き残したものと述べているように、当時(特に、談義僧の説教話として)流布していた説話・世間話の記録、という側面がある。また、新たに噺が創作されるにせよ、そうした噺が口承の笑い話となり、地方へと持ち込まれることもあった。
 それらの噺の舞台の多くは、庶民の日常生活の場であり、
そこには近世の庶民の生活感覚が根付いている。今回は噺本の中に創作・記録された噺の中からとくに鬼と天狗が登場する噺をいくつか見ていき、そこで示されるイメージから、近世庶民が如何に「異類」を笑いものにしたかを考えていく。また、そうした噺が全国的に広まり、民話化した例を挙げ、近世における噺と笑い話をめぐるネットワークを考察する。


※来聴歓迎! 初めて参加する方はX(Twitter)
  @NarazakeMiwa
 までDMを。

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タイトル:
日本に於いてミイラはいかに捉えられたか

発表者:
杉山 和也氏

要旨
 本発表ではミイラ、引いてはエジプトが、特に前近代の日本でどのように捉えられてきたか、という問題について、ミイラがどこでどのようにできるのかを説明する説話を中心に考察した。これは現代でもよく知られる「ミイラ取りがミイラになる」ということわざの成立と深く関わる説話であるが、従来、研究が乏しい。
 ミイラという日本語は17世紀のキリシタン関係の文献に現れ、没薬という樹脂の薬品を意味していた。17世紀後半頃からは錯誤が生じてか、舶来の枯骸の薬を意味するようになる。偽薬が横行するほど、この洋薬は流行した。こうした時代性を背景に上述の説話が諸種の文献に見られるようになる。1711年に130歳で亡くなったとされる渡辺幸庵に対するインタビューをまとめた『渡辺幸庵対話』〔宝永6年(1708)8月9日、対話〕という文献を始め、貝原益軒『大和本草』、後藤梨春『紅毛談』、為永春水『閑窓瑣談』、松葉軒東井『譬喩尽』などに、この説話が見受けられるが、内容には少しずつ違いが見られる。特にミイラができる場としての砂漠に関する描写にはバリエーションがあり、『渡辺幸庵対話』に所載の話では砂漠を小舟で移動するとされている点は、16世紀成立の『東大寺大仏縁起』や19世紀初頭の『絵本西遊記』初編などで、玄奘三蔵が、タクラマカン砂漠を移動しているはずの場面で、波打つ水面を渡る船が描かれていることと繋がる問題だろう。つまり、水が豊富にある湿潤な日本列島に於いて、砂漠のような空間を文献等の情報を主に頼りとしつつ理解し、具体的に思い描くのは、古来、容易ではなかったことを示唆している。前近代の日本では、このように限られた情報と既知の事物に基づいて〈想像〉をめぐらせ、そして〈創造〉をもって補いつつ、遥か遠方の未知の世界のミイラ、引いてはエジプトを捉えていたことが窺われる。
 なお、今回の発表内容は、『中東・北アフリカ日本研究ジャーナル』第2号に刊行予定である。 今回の発表では、特に西洋からのミイラに関する情報の伝来とその受容の問題に焦点を絞って考察を行った。前近代日本における漢文の文献を介しての「木乃伊」、「蜜人」など、ミイラに関する情報の伝来とその受容、ならびに本発表で扱った西洋由来の情報との照らし合わせの問題については、いずれ稿を改めて論じることとしたい。
(文・杉山和也氏)

※これは11月24日(木)にオンラインで開催された第138回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。

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タイトル:
白峯相模坊はどこから来たのか
 —「天狗の山移り」の虚実


発表者:
毛利 恵太

要旨
 今回は天狗の中でも香川県の大天狗として知られる白峯相模坊を中心に、伯耆坊・清光坊という伯耆大山(だいせん)にまつわる天狗の来歴を紐解き、天狗研究家・知切光歳が提唱した「天狗の山移り」説の妥当性について検証した。
 相模坊は謡曲『松山天狗』『鞍馬天狗』で知られた天狗であり、近世の地誌や縁起、紀行文にもその存在が確認できる。讃岐の地に配流となった崇徳上皇の陵墓の傍らに祀られた相模坊だが、近世以前の縁起にはその名が確認できないため、崇徳上皇の怨霊・魔王イメージの醸成とともに形作られ、実際の信仰の場にも定着していったと推測される。伯耆坊もまた大天狗の定番として相模坊や愛宕山太郎坊・鞍馬山僧正坊と並ぶ知名度があるが、実際の伯耆大山における信仰にはその名は用いられなかった。しかし伯耆大山の周辺における天狗認識にはその名を確認でき、地誌などの記録や謡曲などの物語、民話などの口碑において「伯耆大山には伯耆坊という天狗がいる」という前提は共有されていた。清光坊は石鎚山信仰圏で用いられていたと思われる経文『天狗経』にのみその名が確認でき、それ以外の場ではほとんど取り沙汰されてこなかったようである。
 相模大山(おおやま)における信仰にも天狗は存在するが、その名は石尊権現の脇侍である「大天狗小天狗」としか呼ばれていない。しかし知切光歳は相模大山の大山寺に祀られた「伯耆坊」という天狗の祠を“発見”したことで、相模大山の天狗は伯耆坊であるというやや飛躍した論を展開していった。大山寺の伯耆坊祠は記録を信じるならば戦後間もなく建立されたものであり、ここ以外で相模大山の伯耆坊という天狗の名は確認できない。知切は霊山などに棲む天狗には必ず棟梁となる名付きの大天狗がいると考え、特に天狗の名が列挙された『天狗経』を重要視していた。その意識と「相模坊という讃岐の天狗」「伯耆坊ではなく清光坊の名が記された『天狗経』」「相模大山に祀られた伯耆坊」という情報を組み合わせることで「かつて相模大山(おおやま)には相模坊、伯耆大山(だいせん)には伯耆坊がいたが、相模坊が讃岐の白峯に移り、空所となった大山(おおやま)に伯耆坊が移り、更に空所となった大山(だいせん)に清光坊が現れた」という説を提唱したのであった。
 知切の天狗研究は現在に至るまで強い影響を与えており、様々な分野から天狗を研究・考察する時にもよく引用されている。そのため、知切の独自研究からなるある種の“珍説”も定説として無批判に流通することになってしまった。今回の調査で現在定説とされているものにも批判的に向き合う必要性を改めて実感した。今後の課題としては、知切の天狗研究の全体的な再検証と、今も各地に遺されているであろう天狗経・天狗祭文の事例収集が考えられる。また相模大山の「伯耆坊祠」についても、より詳しい背景などの確認が必要であろう。
(文・毛利恵太氏)

※これは2023年7月30日(日)にオンラインで開催された第135回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、
必ず発表者名を明記してください。

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プロフィール
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年齢:
15
性別:
非公開
誕生日:
2009/09/15
自己紹介:
新宿ミュンヘンで誕生。

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