持明院家は西園寺家とともに鷹の道を家業とする家柄として知られる。しかし、鎌倉期以来鷹狩を好む家柄として認識されていた西園寺家に対して、持明院家の人物が鷹狩を行った記載は史料上見出し得ない。同家が鷹を家業とする家として広く認知されるのは室町後期以降であるが、その契機として、持明院基春・基規による鷹書の収集・書写・編纂活動が考えられる。
持明院家の鷹書研究においては、従来群書類従に所収される鷹書が検討の対象の主であった。しかしこれらは近世期の写本が主で、室町期の写本は限られている。本発表では、基春・基規周辺での鷹書の蒐集・編纂により迫るため、基春自筆本などが多く確認される尊経閣文庫に所蔵され、基春周辺での編纂と考えられる『似則似鳩抄』を取り上げた。
持明院基春・基規は鷹の道のみではなく、入木道・郢曲道の家を確立している。『似則似鳩抄』第四十条では、鞠道・歌道と郢曲道、あるいは歌道と入木道の関わりについても記載する。この記載は基春が書写した蹴鞠書(内閣文庫蔵甘露寺家旧蔵本『蹴鞠抄物部類』所収『蹴鞠条々大概』)、あるいは近世持明院流の入木道の書(『入木道相伝事』)などと共通する部分がある。
基春は歌道・蹴鞠道あるいは衣紋道なども視野に入れた幅広い伝書蒐集・書写活動を行っており、持明院家の鷹書の編纂活動、ひいては鷹の家業化はこれらの書写活動の中に位置づけるべきではないかと考察した。
以上のように、同書は持明院家の芸道を考える上でも重要であると同時に、室町後期の公家の芸道観の一端を明らかにするための資料として期待されるものであり、今後も検討を続けたいと考えている。
以上、発表者大坪舞氏による要旨でした。
なお、次回は12月26日(月)午後4時から青山学院大学で開催します。
詳細は近々ご案内します。
初めて参加ご希望の方はご一報ください。
日時:11月25日(金)18時30分~
場所:青山学院大学11号館2階1121教室
大坪舞氏
「持明院基春と鷹書」
要旨:
室町後期においては鷹書が盛んに生成されていく。持明院基春とその子基規は、多くの鷹書の執筆・書写に携わると同時に、入木道・郢曲道の家を確立し、室町後期の公家の芸道を研究する上で注目すべき父子である。
京ではなく美濃で過ごすことも多かった基春の鷹書においては京都における天皇の鷹狩にまつわる記載が多く含まれている。中でも禁裏御料の狩場であり、日次の贄を献上するために鷹狩が行なわれた交野は歌枕としても定着しており、和歌に多く詠まれると同時に、基春の鷹書にも記載がみられる。
本発表では、持明院基春周辺を中心に中世における禁野交野の記載を検討することによって、室町後期以降、公家の地方下向が盛んであった時代における在国、京という二つの空間を、その精神も含めて明らかにすることを目的とする。
両作品において、大黒天は白い面相で描かれ、打出の小槌をふるって戦い、また舞の道具として用いる。儀軌に黒い肌とされる大黒天が白く描かれるのは『豊国祭礼図屏風』に描かれるような、芸能民が被る面とのつながりが想像される。打出の小槌は本来鬼の持ち物とされ、大黒天と鬼のイメージの連絡が注目される他、宝物を打ち出す小槌を武器として使用することも特徴的である。『渓嵐拾葉集』に記される盗賊避けの大黒天や、『犬筑波集』に収録された俳諧がこの大黒天像の形成に影響を及ぼしていると考えられる。『今昔物語集』16-32の小槌で叩いて病を起こす疫病神の姿も、鬼と打出の小槌との関わりから重要であるが、打出の小槌という宝物を武器として用いるというのは、二作品から見られる特徴的な姿である。
大黒舞という芸能を大黒天自身が舞うという趣向も含めて、ここに描かれる大黒天には芸能民の姿が投影されており、なおかつ宝物を単なる武器や舞の道具として用いる姿には、福を授ける存在という信仰からの解離が見える。これは福神が、信仰から切り離されて人と同じ存在にまで引きずり下ろされていくという、お伽草子における福神描写の流れに則ったものであり、『大黒舞』から福神の擬人化が生み出されていったということができる。また大黒天に芸能民の姿が重ねられていたように、『梅津長者物語』に描かれる貧乏神の姿にも、特定の階層の人々が投影されていたようである。柿帷子などに象徴されるその姿は、ライ病者や犬神人などの姿と共通し、中世末から近世初期にかけての、人々の被差別民を見る眼差しを考える上でも、この作品は重要であると言えよう。
以上、発表者塩川和広氏による要旨でした。
※この内容は第22回例会(7月22日・於青山学院大学総研ビル3階1135教室)での発表に基づくものです。
お伽草子の時代、つまり室町期から江戸前期にかけて、妖怪と擬人化キャラクターとは、物語作品上でどういった違いがみられるのか考察した。両者はともに人間以外の〈異類〉として括られるものであって、造形的に共通点も多く、それゆえに境界線が見えづらいからである。
1-1 まず、妖怪は神や精と同様に現実に根ざしたものであること。原則として信仰的実在を前提とするものである。これに対して擬人化キャラクターはある対象を人間に擬えた、見立てた架空の存在である。
(付喪神は滑稽なキャラクターであるが、しかし、古い器物に魂魄が宿るという信仰を基に造形化されている。これに対して器物の擬人化は単に表現手段として「人に擬えること」をしたまでのもの。)
1-2 ただしかし、妖怪や神変を得た動物、神やその眷属が人間やそれに似た姿で表現される場合もある。これは上記の擬人化と立脚するところが違う。したがって、これを「広義の擬人化」と捉え、上記の厳密な意味での擬人化、すなわち「狭義の擬人化」と区別する。
(鬼や天狗が人間に似た姿で描かれるのは、現実にそのような姿であると信じられてきているからであり、その現実社会での共通認識に基づいて物語上、絵画上でも人間に似た姿で表現されるわけである。それは単なる表現手段としての擬人化ではなく、信仰的実在に基づいたものである。)
1-3 以上のように、妖怪と擬人化キャラクターは立脚する次元が異なる。妖怪は現実に根ざしたものであるのに対し、擬人化キャラクターはあくまで表現手段の1つに過ぎないのである。
なお、妖怪といっても、その幅をどの程度までに限定するか、明確に示す必要があるだろう。たとえば山の神の眷属たちは獣の頭をもち、首から下はまったくの人間として造形されることがしばしばある(山海相生物語など)。彼らは妖怪でもないが、神でもない。物語本文上にはほとんど出てこないが、絵巻には脇役として必要不可欠な存在である。彼らをどのように捉えるべきか、今後の課題であろう。個人的には神と妖怪の中間に位置するもののように思えるが。
2 そもそも異類とは鳥・獣・虫・魚・草木・器物・妖怪の総称であり、時に神仏を含む場合もある。これらを主人公とした物語を異類物という。その設定はおよそ3つに整理されるだろう。
a 異類のみで世界が作られているもの(例、虫妹背物語)
b 異類の世界を人間が傍観するもの(例、こほろぎ物語)
c 異類と人間とが共存する世界が作られているもの(例、勧学院物語)
d 人間世界に異類が介入するもの(例、木幡狐)
以上のうち、擬人化キャラクターはabcに含まれ、妖怪はdに限られるようである。a「妖怪のみで世界が作られている」作品は確認できない。b「妖怪の世界を人間が傍観する」作品も確認できない。モチーフとして「鬼の宴を垣間見る」というものを含むものではなく、枠物語として妖怪の世界で行われる妖怪たちの行動を傍観し、記録にとどめるという設定の作品が見られないという意味である。c「妖怪と人間とが共存する世界が作られている」作品はまだこの時代には存在しないようである。
このように物語の世界観や設定の上で妖怪と擬人化キャラクターの違いがみられる。
3 異類物の主題は恋愛・出家遁世・勝負(競争/合戦/問答/退治)が主である。このうち、擬人化キャラクターは人間に擬えた異類の物語だけあって、恋愛・出家遁世・勝負いずれも主題とされている。ただし、勝負のうち、退治は見られない。ここでいう「退治」とは「悪を退ける」という意味である。必然的に主人公は英雄的存在として設定される。擬人化の場合は一方的な退治ではなく、合戦というかたちをとる。それに対して妖怪は恋愛・出家遁世・競争・合戦・問答はなく、退治のみである。
このように、物語の主題の上でも妖怪と擬人化キャラクターの違いがみられる。
4-1 キャラクターについてみると、両者ともに人語を用いるのが基本である。ネーミングは擬人化キャラクターが素材の特性をいかしたものになるのに対して、妖怪は既存のものが使われるか、もしくはそれに類するものが与えられる。
1-1で両者の立脚するところが異なるということを述べたが、ネーミングの点でも、一方が言葉遊びの域のものであるのに対して、他方が現実の伝承に基づくものであることが分かる。
(擬人化キャラクター例―納豆太郎糸重(ナットウ)、上見ぬ鷲の介(ワシ)、鰤丹後守(ブリ*丹後の名産)
妖怪例―酒呑童子、伊吹童子、茨木童子、愛宕山の太郎坊)
4-2 絵画上での造形としては、重なる点が多い。視覚情報での共通点が多いために、両者の区別の曖昧さが出てくる。しかしキャラクター設定上の大きな違いとして指摘できることは、同一作品上で変身するか否かということである。変身は妖怪や神変を得た異類の能力の1つであるから、妖怪が人間に化ける、あるいは人間に姿から妖怪としての正体を現すといった展開が妖怪の物語には見られるものである。しかし、擬人化は1-1で述べたようにあくまで表現手段の1つであるから、物語設定上、その世界では人間あるいはそれに類する姿で一貫しているものである。だから変身能力は持たない。
ただし、擬人化作品については別の点で注意しなくてはならないことがある。それは視点の変換である。『弥兵衛鼠』のように、場面ごとに、原形のネズミであったり、頭部異類型(頭がネズミ、それ以外は人間)であったりする作品があるのだ。これは変身したからではなく、その時々の状況(ネズミだけとか、人間と交渉中とか)に応じて描き分けているようである。この点、もう少し詳細に見ていく必要があるだろう。
以上、発表者伊藤慎吾による要旨(+増補修正)でした。