異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
日時:2月25日14時
会場:大東文化会館 K403室
(東武東上線「東武練馬」駅より徒歩5分)
http://www.daito.ac.jp/file/block_41815_01.pdf
発表者:野中くれあ
題目:「宇治川先陣」における馬
要旨:
宇治川の先陣争いでは梶原景季と佐々木高綱に源頼朝からそれぞれ与えられた二頭の名馬が活躍する。
しかし、その二頭については諸本ごとに毛色も異なれば名前が異なることさえある。
この二頭の名馬を中心に、「宇治川先陣」で登場する馬について平家物語諸本を使いながら考察する。
会場:大東文化会館 K403室
(東武東上線「東武練馬」駅より徒歩5分)
http://www.daito.ac.jp/file/block_41815_01.pdf
発表者:野中くれあ
題目:「宇治川先陣」における馬
要旨:
宇治川の先陣争いでは梶原景季と佐々木高綱に源頼朝からそれぞれ与えられた二頭の名馬が活躍する。
しかし、その二頭については諸本ごとに毛色も異なれば名前が異なることさえある。
この二頭の名馬を中心に、「宇治川先陣」で登場する馬について平家物語諸本を使いながら考察する。
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南方熊楠は短歌・俳句を精力的に作っていたわけではない。しかし、親しい知人への手紙に書き添えたり、人に求められて短冊や色紙などに書いていたことが、日記の記述や現存資料から確認される。
そこで本発表では、まず熊楠の詩歌の全容を把握するために時系列に詩歌一覧を作成した。その結果、在米時までの熊楠はもっぱら都々逸作りを行っているのに対して、短歌や俳句はほとんど作っていなかったことが見えてきた。短歌・俳句の創作を本格化していくのは、帰京後、熊野で調査を始める明治35年(1902)以降のことである。
短歌に関しては、心得がないことを白井光太郎宛の書簡中に記しており、また俳句についても正岡子規や河東碧梧桐らとの交流はありながらも特に師事していたわけではない。どちらにしろ素人ではあるが、日頃から歌書や連俳書、西鶴作品等をよく読んでいたことから、和歌・俳諧の知識は豊富であったと思われる。熊楠にはそうした知識を裏打ちするような創作が見られ、またその作風も近代短歌・俳句というよりも、平明で言語遊戯的な伝統的な和歌であり、月並俳諧であったと評することができるだろう。
また猫を題材短歌の例は見出されなかった。それに対して俳句は9句確認される。大正14年1月に集中的に吟じたことがあったようであるが、その背景は不明。ただ、人に求められ墨絵に添えたものが多いこと、旧作を改作することもあったことが認められた。こうした創作事情や田辺俳壇との関わりなど、背景についても今後調べていきたい。(文・発表者 伊藤慎吾)
以上、異類の会第49回例会(2015年1月28日・於大東文化大学)発表の要旨です。
※なお、南方熊楠顕彰館で間もなく企画展「熊楠と猫」が開催されます。
【会期】2月7日(土) ~3月8日(日)
座談会「四方山〈猫〉話(よもやま<ねこ>ばなし) ~猫を語ろう!~」(2月8日(日)13:00~15:00)
詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i150207
そこで本発表では、まず熊楠の詩歌の全容を把握するために時系列に詩歌一覧を作成した。その結果、在米時までの熊楠はもっぱら都々逸作りを行っているのに対して、短歌や俳句はほとんど作っていなかったことが見えてきた。短歌・俳句の創作を本格化していくのは、帰京後、熊野で調査を始める明治35年(1902)以降のことである。
短歌に関しては、心得がないことを白井光太郎宛の書簡中に記しており、また俳句についても正岡子規や河東碧梧桐らとの交流はありながらも特に師事していたわけではない。どちらにしろ素人ではあるが、日頃から歌書や連俳書、西鶴作品等をよく読んでいたことから、和歌・俳諧の知識は豊富であったと思われる。熊楠にはそうした知識を裏打ちするような創作が見られ、またその作風も近代短歌・俳句というよりも、平明で言語遊戯的な伝統的な和歌であり、月並俳諧であったと評することができるだろう。
また猫を題材短歌の例は見出されなかった。それに対して俳句は9句確認される。大正14年1月に集中的に吟じたことがあったようであるが、その背景は不明。ただ、人に求められ墨絵に添えたものが多いこと、旧作を改作することもあったことが認められた。こうした創作事情や田辺俳壇との関わりなど、背景についても今後調べていきたい。(文・発表者 伊藤慎吾)
以上、異類の会第49回例会(2015年1月28日・於大東文化大学)発表の要旨です。
※なお、南方熊楠顕彰館で間もなく企画展「熊楠と猫」が開催されます。
【会期】2月7日(土) ~3月8日(日)
座談会「四方山〈猫〉話(よもやま<ねこ>ばなし) ~猫を語ろう!~」(2月8日(日)13:00~15:00)
詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.minakata.org/cnts/news/index.cgi?c=i150207
日時:1月28日(水)14時~
会場:大東文化会館 K-403室
※ 前回会場の大東文化大学板橋キャンパスとは場所が異なります。
大東文化会館(東武東上線「東武練馬」駅より徒歩5分)
発表者:伊藤慎吾
題目:「南方熊楠の詩歌と猫」
要旨:
南方熊楠(1867-1941)は博物学や植物学、民俗学などの分野において先駆的な研究を行った。
その関心の幅は広く、言うまでもなく動物にも及んでいた。
その成果として、数々の論考が発表されたが、その一方で短歌や俳句というかたちでその関心を表現してきた。
それらはもっぱら日記やごく親しい知人への書簡などに記されているため、あまり知られていない。
本発表では、熊楠の創作した詩歌の全体像を押さえ、その中でも熊楠自身強く関心を持っていた猫に注目してみたい。
本発表では、古典文学に登場するサメを取り上げ、時代時代でどのような認識を以て捉えられていたかを追究した。結果、中世以前に於いては、サメという語は多くの場合「人を襲うことの稀なエイなどの魚類」を指していると推察された。ただし、近世に入ると、サメは「人を襲う恐るべき存在」として捉えられることが多くなった。この認識の変質については、近世以降、江戸が文化的に影響力を高めて行く過程で、江戸における魚類の呼称もその影響力を増していったことを、その要因として考えた。
以上、サメの認識の通史的な概観を踏まえて、朝比奈三郎義秀が「鮫三喉」を捕獲した説話が、原拠となる『吾妻鏡』以来、曲亭馬琴『朝夷巡嶋記全傳』に至るまでの諸作品の中でサメがどのような役割、或いは表現効果を果たし得ているのかを考察した。すなわち、『吾妻鏡』の段階では、むしろ朝比奈の「長時間の潜水」に焦点のあたった語りであり、「鮫三喉」も飽くまでも長時間に亘る潜水を表すための指標に過ぎなかったと考えられる。ところが、サメの認識が変質したことが要因となって、近世以降の諸作品では鰐鮫を倒す場面に重点が置かれるようになり、専ら武勇譚として語られるようになった。説話の構成要素(サメ)の認識が変質したことにより、説話の在り方そのものが変転したといえる。(文・発表者 杉山和也氏)
以上、異類の会第48回例会(2014年12月27日・於大東文化大学)発表の要旨です。
以上、サメの認識の通史的な概観を踏まえて、朝比奈三郎義秀が「鮫三喉」を捕獲した説話が、原拠となる『吾妻鏡』以来、曲亭馬琴『朝夷巡嶋記全傳』に至るまでの諸作品の中でサメがどのような役割、或いは表現効果を果たし得ているのかを考察した。すなわち、『吾妻鏡』の段階では、むしろ朝比奈の「長時間の潜水」に焦点のあたった語りであり、「鮫三喉」も飽くまでも長時間に亘る潜水を表すための指標に過ぎなかったと考えられる。ところが、サメの認識が変質したことが要因となって、近世以降の諸作品では鰐鮫を倒す場面に重点が置かれるようになり、専ら武勇譚として語られるようになった。説話の構成要素(サメ)の認識が変質したことにより、説話の在り方そのものが変転したといえる。(文・発表者 杉山和也氏)
以上、異類の会第48回例会(2014年12月27日・於大東文化大学)発表の要旨です。
四国を中心に首の無い馬が走るという伝承は多く見られ、ある決められた時や道に音を伴い現れるといった特徴がある。その異類は松山大学七不思議などの「学校の怪談」でも語られ、愛媛県の小学校では、学校教員も積極的に生徒に首無し馬の話を伝えようとしていることがホームページなどから分かる。このように人気の異類であるが、近似の事例である夜行さんや首だけの馬などに対し造形化されることが少ない。これは、首が無いというキャラクターは造形化が難しいためと指摘し、また、このことから口承で伝えられることに特化した異類であると述べた。
現在は首が無いと伝承されるが、その特徴が幕末や明治初期の文献では見られないものがあると「予陽塵芥集」や「愛媛面影」と愛媛県松山の伝承を比較し指摘。また、類似の事例として首の無い騎馬武者として福井に伝承されるものも、『真雪草紙』の中では頭部欠落の記述はない。これらの馬に乗った怨霊という怪異はある時から「首無し馬になった」のだということができる。
(文・発表者 永島大輝氏)
以上、異類の会第47回例会(2014年10月24日・於青山学院大学)発表の要旨です。
現在は首が無いと伝承されるが、その特徴が幕末や明治初期の文献では見られないものがあると「予陽塵芥集」や「愛媛面影」と愛媛県松山の伝承を比較し指摘。また、類似の事例として首の無い騎馬武者として福井に伝承されるものも、『真雪草紙』の中では頭部欠落の記述はない。これらの馬に乗った怨霊という怪異はある時から「首無し馬になった」のだということができる。
(文・発表者 永島大輝氏)
以上、異類の会第47回例会(2014年10月24日・於青山学院大学)発表の要旨です。