異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
「イベントにおけるケモナー向けジャンルの現在とケモナーについての調査の経過報告」
近年、人外系の作品が増え、「ケモナー」という言葉自体もまた一般に知られるようになってきているが未だ誤解も多い。しかし、私自身もただのケモミミや動物に対して性愛を向けることをケモナーではないと断言することはできるものの、ケモナーとは何であるかもいうのを突き詰めて行くと、はっきり言葉にすることは難しいと感じたということもあり、オンライン上の百科事典やイベントなどの調査通じて「ケモナー」とは何であるかをひとまず定義してみようと試みた。
そもそもケモナーとは何を指すのかということでオンライン上の百科事典を参照したところ、ケモノ好きの人々を指すとのことであったがそもそも、「ケモノ」が何を指すかということ自体に対してケモナー間で論争があると言及されていたこともあり、そもそも「ケモノ」とは何かというのを探るため、実際のイベント(今回はけもケットとコミックマーケットに参加した)での扱われ方を参照してみたところ、そもそもマズル(口吻のこと)、もしくはケモノ鼻(犬猫の鼻のような逆三角形の鼻のこと)が必須であるということ、また頭部においてもう一点必ず動物要素が必要であるのではないかという結論に至った。
また、オンライン上の百科事典では獣人はよりリアルな動物の頭部を持つ人型を指すとのことであったが実際にはリアルな頭部を持つ獣人のイラストが獣人・ケモノオンリーイベントであるけもケットでのサークルカットに使われることはなく、こうしたオンラインで得られる情報が実状とそぐわない可能性が出てきた。
また、イベントでは男性が非常に多く、コミックマーケットでの扱い等を見る限り男性向けジャンルとして扱われているということも判明した。
今後はその他のイベントにも参加し、ケモナーの定義を進めていくと同時に、ケモナーの発祥や、今回の調査範囲には含まなかった着ぐるみや海外のfurriesについて、女性が多いという擬人化ジャンルとの違いなどの調査もしていきたい。(文・発表者)
※2017年9月30日(土)に國學院大學で発表されたものです。
近年、人外系の作品が増え、「ケモナー」という言葉自体もまた一般に知られるようになってきているが未だ誤解も多い。しかし、私自身もただのケモミミや動物に対して性愛を向けることをケモナーではないと断言することはできるものの、ケモナーとは何であるかもいうのを突き詰めて行くと、はっきり言葉にすることは難しいと感じたということもあり、オンライン上の百科事典やイベントなどの調査通じて「ケモナー」とは何であるかをひとまず定義してみようと試みた。
そもそもケモナーとは何を指すのかということでオンライン上の百科事典を参照したところ、ケモノ好きの人々を指すとのことであったがそもそも、「ケモノ」が何を指すかということ自体に対してケモナー間で論争があると言及されていたこともあり、そもそも「ケモノ」とは何かというのを探るため、実際のイベント(今回はけもケットとコミックマーケットに参加した)での扱われ方を参照してみたところ、そもそもマズル(口吻のこと)、もしくはケモノ鼻(犬猫の鼻のような逆三角形の鼻のこと)が必須であるということ、また頭部においてもう一点必ず動物要素が必要であるのではないかという結論に至った。
また、オンライン上の百科事典では獣人はよりリアルな動物の頭部を持つ人型を指すとのことであったが実際にはリアルな頭部を持つ獣人のイラストが獣人・ケモノオンリーイベントであるけもケットでのサークルカットに使われることはなく、こうしたオンラインで得られる情報が実状とそぐわない可能性が出てきた。
また、イベントでは男性が非常に多く、コミックマーケットでの扱い等を見る限り男性向けジャンルとして扱われているということも判明した。
今後はその他のイベントにも参加し、ケモナーの定義を進めていくと同時に、ケモナーの発祥や、今回の調査範囲には含まなかった着ぐるみや海外のfurriesについて、女性が多いという擬人化ジャンルとの違いなどの調査もしていきたい。(文・発表者)
※2017年9月30日(土)に國學院大學で発表されたものです。
PR
日時:9月30日(土)14時~
会場:國學院大學若木タワー14階打ち合わせ室
(開場は13時)
発表者:野中くれあ氏
タイトル:イベントにおけるケモナー向けジャンルの現在とケモナーについての調査の経過報告
要旨:
近年、『けものフレンズ』や『セントールの悩み』など、人外をメインに据えた作品が次々とアニメ化を果たし、人外もの自体が一つのジャンルとして注目をあびている。
その流れゆえか同時にケモナーという存在について言及される機会も増えた。
しかし、現状ケモナーについての理解は低く、ケモナー自身も日本においては積極的に表に出ることは少ない。
今回の発表においては実際のケモナー向けイベントでの調査をメインに据え、改めてケモナーとは何かについて考察したい。
原辰吉氏「「歩兵の髪切り」と髪切り」
江戸期の随筆に記録された髪切りや絵画や狂歌に描かれた髪切りの表象を辿り、岡本綺堂「歩兵の髪切り」(『半七捕物帳』)・澁澤龍彦「髪切り」(『うつろ舟』)といった髪切りが登場する文学作品の分析を試みた。
綺堂の「歩兵の髪切り」では髪切りの手触りとして「天鵞絨か獣の毛のように」という文がある。これは歌川芳藤作の浮世絵『髪切の奇談』に「恰も天鵞絨のごとくなりしとぞ」という記述を意識したものである可能性がある。また作品内で、正体不明の髪切りに対しての解釈が転移していくが、これらの解釈は江戸期の随筆に書かれているものと重複するところがある。従来の髪切りにない要素の付け加えとして、作品の最後に髪切り事件の被害者が死亡するという記述がある。これは理屈のわからない怪談を目指した綺堂の意識のあらわれであろう。
澁澤龍彦の「髪切り」においては、髪切りが修験者のしわざであるとされる。朝川善庵『善庵随筆』や喜多村信節『嬉遊笑覧』といった随筆において髪切りの正体が修験者と示唆される部分と重複する。澁澤龍彦の「髪切り」においては、髪とそれを切られるという被害を通して、主人公であるお留伊の女性の自覚が描かれていると考えられる。
文学作品内に描かれる怪異を、その怪異の背景を含めてテキストに還元することによって、明らかになる創作意識もあるのではないだろうか。
今後の課題としては、映像化資料の分析、髪切りに対する細かな調査(髪切虫との関連、海外で同様の怪異があるか)等があげられた。(文・原辰吉氏)
以上、8月8日例会の要旨でした。
※次回は9月30日(土)14時開催です。
江戸期の随筆に記録された髪切りや絵画や狂歌に描かれた髪切りの表象を辿り、岡本綺堂「歩兵の髪切り」(『半七捕物帳』)・澁澤龍彦「髪切り」(『うつろ舟』)といった髪切りが登場する文学作品の分析を試みた。
綺堂の「歩兵の髪切り」では髪切りの手触りとして「天鵞絨か獣の毛のように」という文がある。これは歌川芳藤作の浮世絵『髪切の奇談』に「恰も天鵞絨のごとくなりしとぞ」という記述を意識したものである可能性がある。また作品内で、正体不明の髪切りに対しての解釈が転移していくが、これらの解釈は江戸期の随筆に書かれているものと重複するところがある。従来の髪切りにない要素の付け加えとして、作品の最後に髪切り事件の被害者が死亡するという記述がある。これは理屈のわからない怪談を目指した綺堂の意識のあらわれであろう。
澁澤龍彦の「髪切り」においては、髪切りが修験者のしわざであるとされる。朝川善庵『善庵随筆』や喜多村信節『嬉遊笑覧』といった随筆において髪切りの正体が修験者と示唆される部分と重複する。澁澤龍彦の「髪切り」においては、髪とそれを切られるという被害を通して、主人公であるお留伊の女性の自覚が描かれていると考えられる。
文学作品内に描かれる怪異を、その怪異の背景を含めてテキストに還元することによって、明らかになる創作意識もあるのではないだろうか。
今後の課題としては、映像化資料の分析、髪切りに対する細かな調査(髪切虫との関連、海外で同様の怪異があるか)等があげられた。(文・原辰吉氏)
以上、8月8日例会の要旨でした。
※次回は9月30日(土)14時開催です。
会場:武蔵大学3号館2階 院生GSルーム(トイレ横の教室)
日時:8月8日(火)18:30開始
http://www.musashi.ac.jp/annai/campus/ekoda.html
※院生室(非公式)の利用ですので、正門の受付には聞かずにそのまま入ってきてください。建物は正門入って右手正面にあります。
1)
発表者:福原敏男氏
タイトル:伊勢参詣の動物擬人化(仮)
2)
発表者:原辰吉氏
タイトル:髪切りをめぐって
内容:
岡本綺堂の小説「歩兵の髪切り」には、髪切りの怪が不可解な謎として登場する。綺堂は江戸期随筆等から多く素材をとっている作家であるが、その作品のなかで髪切りがどのように扱われているかみていくことにより、綺堂の作家意識とともに、近代文芸のなかで怪異がどのように描かれるのかを考察してみたい。
(余裕があれば澁澤龍彦「髪切り」〈『うつろ舟』収録〉等も考えたい)
※「歩兵の髪切り」は青空文庫にもあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/972_15039.htm
日時:8月8日(火)18:30開始
http://www.musashi.ac.jp/annai/campus/ekoda.html
※院生室(非公式)の利用ですので、正門の受付には聞かずにそのまま入ってきてください。建物は正門入って右手正面にあります。
1)
発表者:福原敏男氏
タイトル:伊勢参詣の動物擬人化(仮)
2)
発表者:原辰吉氏
タイトル:髪切りをめぐって
内容:
岡本綺堂の小説「歩兵の髪切り」には、髪切りの怪が不可解な謎として登場する。綺堂は江戸期随筆等から多く素材をとっている作家であるが、その作品のなかで髪切りがどのように扱われているかみていくことにより、綺堂の作家意識とともに、近代文芸のなかで怪異がどのように描かれるのかを考察してみたい。
(余裕があれば澁澤龍彦「髪切り」〈『うつろ舟』収録〉等も考えたい)
※「歩兵の髪切り」は青空文庫にもあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/972_15039.htm
廣田龍平氏
「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」
今回は「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」と題して、日本の知識人たちが、西洋の何を「天狗」という日本妖怪に当てはめたのか、翻訳実践の変遷を追う内容の発表を行なった。
まず、16世紀後半~17世紀前半のキリシタン文献においては、天狗はキリスト教の「悪魔」の翻訳に用いられていたことを紹介した。「正しき教え」であるキリスト教に対抗し、また自在に天空を飛翔する悪魔たちは、仏法の敵であり、やはり翼をもって空を飛ぶ天狗と宗教的・倫理的に同一視されたのである。一方で天使のほうは「アンジョ」と音訳されるに留まった。その後、禁教とともに西洋の宗教情報はほとんど入らなくなってくる。蘭学が本格的に盛んになった18世紀末、ふたたび西洋(オランダ語)の言葉に「天狗」という訳語が割り当てられることになったが、このとき蘭学者たちが想定していたのは、悪魔ではなく天使、とくに智天使(ケルビム)のほうであった。
なぜ彼らはキリシタンとはまったく概念的に反対の存在を用いることになったのだろうか。今回の発表では、18世紀末~19世紀前半、依然としてキリスト教の体系的な知識を得ることは困難だったが、断片的な知識を得ることは可能だったため、そこから成立したのが「天使は天狗である」という等式だったのではないか、と考えた。具体的には、天狗も天使も翼が生えており、人間のような姿をしており、超常的な力をもち、場合によって神仏との関係が前景化されることもあった。脱宗教化された天使は、倫理的な共通点ではなく、形態的・能力的な共通点から、当時やはり脱宗教化されていた天狗と比較可能な存在になったのである。
一方、20世紀前半、浅野和三郎らの神霊主義において、天狗は(今度は)西洋の妖精と類似することが指摘されるようになるが、近代化した日本において、もはやこの意見は一般に受け入れられることはなかった。
フロアとのディスカッションにおいては、『日葡辞書』ではどのような訳語が用いられていたか、前近代の漢訳キリスト教文献ではどうなっていたか、明治初期の西洋人による翻訳ではどうだったか、といった、さまざまなコンテクストにおける「翻訳」事例へと内容を広げる質疑が交わされた。また、天狗ではなく鬼はどのように翻訳に使われたか・翻訳されたか、という観点からのコメントもあった。確かに鬼は、天狗と比較すると現代でも幅広く訳語として用いられている。この違いは何だったのだろうか。日本における「鬼」理解が大きく関わってくるだろうが、今後の検討課題である。
翻訳を通して「異類」の理解を捉えようとする試みはこれまでほとんど行なわれてこなかったが、異文化からの視点は思わぬ発見をもたらす可能性もある。今回はおもにオランダ語との比較を行なったが、今後はほかの欧米・東アジア諸語にも視野を広げてみたいと考えている。(文・廣田龍平氏)
次回は8月8日(火)18:30開始、武蔵大学3号館2階 院生GSルームで開催します。
「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」
今回は「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」と題して、日本の知識人たちが、西洋の何を「天狗」という日本妖怪に当てはめたのか、翻訳実践の変遷を追う内容の発表を行なった。
まず、16世紀後半~17世紀前半のキリシタン文献においては、天狗はキリスト教の「悪魔」の翻訳に用いられていたことを紹介した。「正しき教え」であるキリスト教に対抗し、また自在に天空を飛翔する悪魔たちは、仏法の敵であり、やはり翼をもって空を飛ぶ天狗と宗教的・倫理的に同一視されたのである。一方で天使のほうは「アンジョ」と音訳されるに留まった。その後、禁教とともに西洋の宗教情報はほとんど入らなくなってくる。蘭学が本格的に盛んになった18世紀末、ふたたび西洋(オランダ語)の言葉に「天狗」という訳語が割り当てられることになったが、このとき蘭学者たちが想定していたのは、悪魔ではなく天使、とくに智天使(ケルビム)のほうであった。
なぜ彼らはキリシタンとはまったく概念的に反対の存在を用いることになったのだろうか。今回の発表では、18世紀末~19世紀前半、依然としてキリスト教の体系的な知識を得ることは困難だったが、断片的な知識を得ることは可能だったため、そこから成立したのが「天使は天狗である」という等式だったのではないか、と考えた。具体的には、天狗も天使も翼が生えており、人間のような姿をしており、超常的な力をもち、場合によって神仏との関係が前景化されることもあった。脱宗教化された天使は、倫理的な共通点ではなく、形態的・能力的な共通点から、当時やはり脱宗教化されていた天狗と比較可能な存在になったのである。
一方、20世紀前半、浅野和三郎らの神霊主義において、天狗は(今度は)西洋の妖精と類似することが指摘されるようになるが、近代化した日本において、もはやこの意見は一般に受け入れられることはなかった。
フロアとのディスカッションにおいては、『日葡辞書』ではどのような訳語が用いられていたか、前近代の漢訳キリスト教文献ではどうなっていたか、明治初期の西洋人による翻訳ではどうだったか、といった、さまざまなコンテクストにおける「翻訳」事例へと内容を広げる質疑が交わされた。また、天狗ではなく鬼はどのように翻訳に使われたか・翻訳されたか、という観点からのコメントもあった。確かに鬼は、天狗と比較すると現代でも幅広く訳語として用いられている。この違いは何だったのだろうか。日本における「鬼」理解が大きく関わってくるだろうが、今後の検討課題である。
翻訳を通して「異類」の理解を捉えようとする試みはこれまでほとんど行なわれてこなかったが、異文化からの視点は思わぬ発見をもたらす可能性もある。今回はおもにオランダ語との比較を行なったが、今後はほかの欧米・東アジア諸語にも視野を広げてみたいと考えている。(文・廣田龍平氏)
次回は8月8日(火)18:30開始、武蔵大学3号館2階 院生GSルームで開催します。