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異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
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タイトル:
 牛天神貧乏神祭祀伝承に関する再攷


発表者:
 羽鳥佑亮氏

要旨:
本発表では、『耳袋』巻之二「貧窮神の事」などにおいて、当時の世間話とし記録された、牛天神に関わるところにおいて貧乏神を祭祀したとする言説を、仮に「牛天神貧乏神祭祀伝承」として俎上に載せた。先行研究においては、『耳袋』当該話を、何らかの災厄をもたらす神格を祀り福徳を得ようとする事例として引用がなされてきた。これには、『耳袋』当該話と類話とされ、また、牛天神貧乏神祭祀伝承を記す、『兎園小説』第九集「窮鬼」も、いわばこの論を補うかたちで用いられてきた。
しかし、『兎園小説』当該話には引用元の提示がある。『四方のあか』巻上「日ぐらしの日記」だが、これについては言及されることがなかった。
そこで、『四方のあか』当該話を確認すると、貧を追うために祀るもので、貧乏神を祀り福徳を得ようとするものではなかった。しかも、これを言いだしたのは狂歌を専らとする千里亭白駒という人物であり、信用に値するか疑問で、戯れに述べたとも想像できる。
これとともに、牛天神別当泉松山竜門寺により、貧乏神を「黒暗天」とし、御影を描いた護符が出されていた。明治の神仏分離にともない別当泉松山竜門寺が廃絶し、北野神社となると、これにともない、「黒暗天」祠は「太田神社」となる。当時の雑誌などからは、このときから北野神社では、牛天神貧乏神祭祀伝承を積極的に公言しないさまがみてとれた。
これらから、牛天神貧乏神祭祀伝承は、江戸時代後期の戯れや世間話をもとに、牛天神別当泉松山竜門寺による関与が濃厚であると考えられる。
ひとつの発表としてはひろえなかった、断片的な記事も多い。今後の課題としたい。
(文・羽鳥佑亮氏)


*これは2025年7月27日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第156回の要旨です。

*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は8月31日(日)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。

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タイトル:
 鯰絵も繁殖する
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地震錦絵の表現形式


発表者:
 増田こころ

要旨:
本発表では、安政地震地に爆発的な流行を見せた「鯰絵」の、特にその表現形式に注目し、受容やその来歴について考察をした。

発表にあたっては、鹿島明神や人間が武器をもって鯰を攻撃する「退治型」、鯰が神仏と対峙した姿が描かれ、鯰の申し開きと地震よけとされる梵字が書かれる「護符型」、人間が鹿島明神や鯰を拝みながら願いや感謝を口にする「祈願型」、地震によって儲け遊び歩いた職人や、施行を渋ったため揶揄された金持ちが描かれる「諷刺型」、歌舞伎の台詞や御品書きを捩ったり、浮世絵をトレースしたりと思しき「模倣型」と大きく分類した。
これらは、それぞれが別の来歴をもち、安政地震以前からたびたび発行されていた出版物の形式に則って作成されていると考えられる。

また、受容を明らかにすることを発表目的としたものの、想像にとどまり、改めて各々の形式ごとに鯰絵という枠を超えて検討する必要がある。今後の課題としたい。

質疑では、「護符型」も護符を模しているという意味で「模倣型」に含まれるだろう、という分類についてのご指摘や、麻疹流行時の錦絵や教化戯文である「心躰安樂丸」の受容との関連、また調査方法についても様々ご教示いただいた。

受容の問題も含め、直近の課題は「護符型」に類する一群である。先述の通り、災害時の出版物に留まらず広くこれを集め検討の材料としたい。

また、皆さまからの、ご指摘ならびにご教示へ、この場をお借りして感謝申し上げます。
(文・増田こころ氏)


*これは2025年6月29日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第156回の要旨です。

*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は7月27日(日)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。




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タイトル:
孫太郎の探索4―またまた孫太郎天狗に連れ回された件

発表者:
林 京子

要旨
1、岩船山の孫太郎天狗信仰
 
・「生身の地蔵出現の霊場」岩船山高勝寺には天狗「孫太郎尊」が祀られ、飛行する稲穂をくわえた狐に乗るカラス天狗のお札が頒布されている。17世紀初めには岩船山に魔=天狗がいたことが『御鎮座記』に書かれ、18世紀初めの幕府が作らせた街道絵図にも孫太郎の名前の堂舎が複数描かれる。天台宗寺院の常行堂の背後を守るのが摩多羅神。高勝寺は山王一実神道に沿って創建された寺院なので、東照三所権現の一つである摩多羅神がいても全く不思議はない。高勝寺の周辺では中世は吒枳尼天信仰が盛んで、近世には吒枳尼天と摩多羅神が習合した。さらに得体のしれない強力な力を持つという共通性から、仏法の守護神である摩多羅神と、仏法の敵である天狗が、性格が真逆であるのに習合したのではないか。そうすると岩船山の孫太郎天狗とは摩多羅稲荷天狗なのかもしれない。
 
2、佐野市の孫太郎稲荷と佐野氏
 
・岩船山の近隣の佐野市伊賀町には通称「孫太郎稲荷」がある。稲荷と通称されているが、その本体は天狗である。佐野の孫太郎稲荷は佐野氏の祖先神「藤原(足利)孫太郎家綱」崇拝の変奏でもある。唐沢山城に祀られた吒枳尼天が、佐野城の移転で現在の孫太郎稲荷に習合したと考えられ、岩船山の孫太郎と同じ天狗と推測される。
 
3,薬師寺の孫太郎稲荷
 
・薬師寺の境内社孫太郎稲荷は狐であり天狗ではない。「孫太郎稲荷は領主によって姫路を所払いされ社人がご神体を持ってあちこちさまよい、縁があって寛政ごろに当地に来てここに鎮座した」とされ、伏見稲荷との関連も示唆される。佐野に孫太郎稲荷を再興した佐野孫太郎義綱の名前から「孫太郎稲荷」であるという説も存在する。
 
4、姫路市の孫太郎稲荷
 
・姫路の「孫太郎稲荷」は「春日神社」の境外末社で「刃の宮地蔵尊」と隣り合い、社殿がなく「孫太郎稲荷大神」と彫られた石碑が建つだけ。能「小鍛冶」が姫路の在地伝承化し、地蔵と合体している。孫太郎狐は芝原村に留まったが、一人暮らしの老婆が孫太郎狐に食物を与えていた。孫太郎は老婆の恩に報いる為姫路城の本田家(姫路領主)の金蔵に忍び込み千両箱を盗み出して老婆に与えたことが露見し、藩主本田忠政から国拂いを命じられ、やむなく書置きを残して姫路を去ったという。
 
芝原村周辺の鍛冶職の人々の信仰と能の「小鍛冶」が合体し、三条宗近の相槌を打った「孫太郎狐」は稲荷神の化身として信仰され、境界のカミとして祀られていた石地蔵と三条宗近が合体して刃の宮地蔵尊になったようだ。何らかの理由で近世のはじめに孫太郎稲荷は破却されたが、姫路に移住した佐野氏が祀った「孫太郎稲荷」が「姫路の孫太郎稲荷」と習合した可能性も完全否定はできない。姫路の孫太郎稲荷の成立は重層的である。
 
5、ここまでのまとめ
 
・孫太郎とは親の代が早世し孫が家督を継いだことを示す記号(=孫嫡子)または太郎や次郎(=宗家)から少しへりくだった位置にいるという序列を示す記号で個別名ではない可能性もある。
 
・近世は祭神が吒枳尼天でも天狗でも特に問題が無かったが明治以降、神社として存続するために祭神になんらかの合理的統一的な意味付けが必要となり、それが孫太郎の迷走を生む?
 
6、福岡の「中司孫太郎稲荷」
 
・福岡市中央区西公園13-10に「正一位中司孫太郎稲荷」が存在。この付近に点在していた多数の稲荷社を一ヶ所に集めて祀ったのが始まりとされる。その裏山斜面には、30体以上の神体を祀る大小の祠がぎっしり並び、ひょんなことから「サイバー神社」となってしまった。社務所の人の話では、中司孫太郎神社の「中司」は人名なのか、地名なのか、まったくわからないが、大昔に伏見稲荷から分霊としたとも聞いているらしいが、中司孫太郎稲荷は松源院・東照宮の裏山に位置するという高勝寺と同じ地政学的な位置。ここに摩多羅神がいても全く不思議はない。福岡まで行ったのに、スタート地点に連れて行かれてしまった。天狗おそるべし。
 
7、岩船山の孫太郎尊拝殿内の新展開
 
一方、岩船山では孫太郎尊本堂の脇の絵馬堂にあったものが、壁面に掛け直されていた。奉納額は40個ほどであったが、元旦講のものや、剱の形のものもあり孫太郎尊への祈願者は剱を奉納するとされていた先行研究と一致する。また、孫太郎本殿は脇障子や羽目板彫刻、天井画もあったが、近代以前の奉納物が廃棄されている為詳細は不明。
 
8、おわりに
 
「吒枳尼と飯綱とは異名異体にして而も一体ならん」(『和漢故事群談』)狐の尾に宝珠を造るのも、『古今著聞集』巻六「咜祇尼天生活事幷福天神事」に拠るもので、宝珠は福徳を与えるものである、とされていることがわかった。また孫太郎尊の画像は、『飯綱権現御縁起文』の一部を画像化したものとも考えられる。江戸時代の絵図の「福躰孫太郎」とは、吒枳尼天=稲荷の姿のものを指していたとも考えられ、狐の形の孫太郎もあったということなのだろうか?管見の限りで最も古いお札(小山博物館所蔵)は「奉修狗賓剛」という文字のみのもの。一方昨年放映された「仮面ライダーギーツ」の主人公のギーツは吒枳尼天と思われる。その最終回は高勝寺でロケが行われ、孫太郎参道の前に九尾の狐の姿で吒枳尼天ギーツが祀られた。社の背後は鐘楼である。仮面ライダーギーツでは、世界が創り替えられる時鐘の音が響き渡る。その音は戦時に供出されてしまった高勝寺の鐘の音なのだろうか。得体のしれない吒枳尼天、摩多羅神という中世密教の尊格に、現在のメディア製作者(と発表者)が引き寄せられるのは、必然なのか偶然なのか。発表者はこのところ、狐や天狗に化かされて日本中連れ回されているが、これで終わりにしてもらえるのだろうか(涙)              
 
9、質疑応答から
 
・狐の尾や宝珠については『古今著聞集』以外にも『渓嵐拾葉集』にも言及されており、その信仰は重層的で、各時代ごとに重なり合い膨れ上がるが、その根本は中世密教的な、得体のしれない障礙神である吒枳尼天や摩多羅神の習合があるだろう。
 
・高勝寺の奉納額は、詳細な記録の作成が必要で、そこから意外な広がりがみられる可能性がある。暖房が全くない環境なので、3月以降に再調査を行いたい。
 
・天狗は山の神であり、山の神とは人の生死を知る神であることが、昔話などから推察される。それゆえに戦死除けの祈願が為された。また孫太郎尊は中世には釼が峰(けんがみね)という岩船山で最も高い岩山の峯に住まうと考えられ、そこから「剱の形」=孫太郎尊という理解が為され、祈願の報賽が剱形とされたと推測される。或いは相模大山の「お太刀上げ」(祈願には太刀を奉納する)の模倣も考えられる。
 
・福岡の「中司孫太郎稲荷」の奥に祀られる多くの祠については、アンヌ・ブッシイ『神と人のはざまに生きる』東京大学出版会、2023(3版)が非常に参考になるので、興味のある方は、ぜひお読みいただきたい。発表者は単に岩船山の宗教文化史調査を行っているだけで、特に天狗を調べたいわけでもなく、キツネや稲荷信仰に関心があるわけでもないのに(それ故?)孫太郎に連れ回されて疲労困憊である。このままどこに連れて行かれるのか心もとない今日この頃である。大変拙い発表を聞いて頂いた皆様に心から感謝いたします。
 (文・林京子氏)

※これは1月14日(日)にオンラインで開催された第140回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。


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タイトル:
孫太郎は天狗か狐か
 ―岩船山高勝寺の孫太郎尊とその周辺―

発表者:
林 京子氏 

要旨
 発表者は岩船山(栃木県栃木市)の宗教文化史を調査研究している。岩船山中には天狗「孫太郎尊」が祀られている。明治以降は、高勝寺が天狗信者の講である「元旦講」を引き継いでいた。
 佐野市にも岩船山と同一と思われる天狗が「孫太郎稲荷」として祀られている。この「孫太郎」は伝説的な武将藤原秀郷の子孫で怪力無双の藤原「孫太郎」家綱である。岩船山の孫太郎と佐野の孫太郎は同一の尊格と考えられる。佐野で奈良の薬師寺の鎮守休岡八幡宮末社に「孫太郎稲荷」があることを教えられた。
 そこで奈良に行くと「孫太郎稲荷は姫路を追われて寛政期にここに来た」と教えられた。そこで姫路まで行くと、孫太郎は狐で、書置きを残して国払いされ、孫太郎稲荷は破却されていた。そして能の演目である「小鍛冶」が狐の孫太郎を主人公とした姫路の伝説になっていた。
 『大和名所図会』(寛政三年)の薬師寺の挿絵に現在の孫太郎稲荷と同じ場所に鳥居と小祠が描かれている。寛政元年あたりに遷座したから、ではないかという指摘をいただいたが、姫路から昨今来たばかり・・・などのいわくがあれば、名所図会に記載があるのではないか。休岡八幡や薬師寺の詳細な寺史の追及が今後の課題である。
 また、発表者は「孫太郎」は俗名とは考えてきた。が、「太郎」「次郎」のように、孫太郎とは系図が一代飛んでいることを示す順番を示す名前で個人名ではない、とも考えられる。今回の発表で言い忘れたが、孫太郎と孫嫡子とは同じ意味である。疱瘡除けの「湯尾の孫嫡子」との関連も興味深い。
 孫太郎という名を結節点として東(天狗)西(狐)の別の孫太郎伝承が存在することが判明したが、両者が同体なのか別なのか、簡単に断定もできない。山伏が奉斎していた「孫太郎明神」は、天狗の姿で神狐に騎乗した尊格で、それが吒枳尼天でも稲荷神でも、近世には特に問題が無かった。しかし、明治以降は修験道禁止令で本来の祭祀者を失った上、祭神に合理的な意味付けがされたことが現在の孫太郎の迷走を生んだようにも思えるが、天狗か狐に連れ回された発表者に、彼らが近世の豊饒な信仰世界を垣間見せてくれたのかもしれないし、それ自体が彼らの作りだす幻なのかもしれない。今後もこのような信仰世界を産み出す霊場、岩船山をさまよい続けたい。
(文・林京子氏)

※これは2023年5月28日(日)にオンラインで開催された第133回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、
必ず発表者名を明記してください。

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タイトル:
いわゆる「丑の刻参り」はどこからきたのか?
発表者:
鳴海あかり

 中世以前においては、まず「丑の刻参り(丑の時参り・丑の時詣)」といった言葉が、あくまで単に丑の刻に参り祈願を行うだけの、呪詛も女の嫉妬も関係ない語として確認できる。そこに女の嫉妬などの要素を加えたのは宇治の橋姫説話である。代表的なのは『平家物語』剣の巻であるが、ここには丑の刻も人形も釘も登場しない。しかし謡曲『鉄輪』や御伽草子『かなわ』を見ると、橋姫が丑の刻参りを行っているところに示現があったという記述がみられ、橋姫説話と丑の刻参りの接続が読み取れる。
 一方釘打つ呪いというものは平城宮から出土した形代に既に確認できる。8世紀後半ごろのもので、釘が両目と胸部に刺さった木製のひとがたである。また『名例律裏書』にも「厭魅事」として似た内容の記述が確認できる。また『台記』には「天公像」の目に釘打つことが見えるが、これは神仏を責めることによって強引に願いを叶えてもらおうとする意味合いが読み取れる。一方『勝尾寺住侶等重申状案』には上下御霊神社や貴船神社に釘を打って呪いをかけたことがみえ、より近世的な形になっている。
 近世に入るころには女性が嫉妬により神社などに出向いて釘打って呪うことを「丑の刻参り」と称するようになる。また女性の嫉妬だけでなく、鉄輪にろうそくといったビジュアル要素も橋姫説話から取り入れられる。このころにはこのような意味での「丑の刻参り」はすでに常識となっていたようで、間抜けで現実的な、笑いの対象としての丑の刻参りが様々にみられる。
 しかしながら近世に入ってもまだ人形は出てこない。元禄頃になると紙人形や木の人形がみられるが、藁人形ではない。初めて丑の刻参りに藁人形が使われると明記されるのは1783年の『万載狂歌集』である。これ以降の事例では丑の刻参りと称して藁人形に釘を打つ記述や図像表現が散見される。また古典落語『藁人形』においては、元となった小咄には人形が登場しなかったのに対し、こちらでは当然のごとく藁人形が登場する。この間に丑の刻参りの「当たり前」が変化したのだろうと言える。
 最後に近現代の事例について少し触れた。明治に入っても丑の刻参りに使う人形は絶対に藁人形でなければならないというわけではなかったことが、事例数の集計によってわかる。明治時点で藁人形が使われると明記される割合は63%であるのに対し、平成以降では89%に上昇している。これについては藁人形というものが日常的な存在ではなくなり丑の刻参り以外で目にすることが少なくなったこと、商業化や各種メディアによる「丑の刻参りといえば」というイメージの固定という二点の要因が指摘できる。
 質疑応答では有難いことに多数の情報提供や、地域比較の問題、海外の事例、口に櫛を咥えるという作法がいつから存在するのかといった問題などについて様々に議論が発展した。また資料の読みについて指摘をいただいた。さらによく資料を読み込むと共に、提供された情報を踏まえて研究に反映させていきたい。また今後は近現代についてもまとめて考察していくつもりである。(文・鳴海あかり氏)


※これは2022年11月20日(日)にオンラインで開催された第127回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、
必ず発表者名を明記してください。



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プロフィール
HN:
異類の会
年齢:
15
性別:
非公開
誕生日:
2009/09/15
自己紹介:
新宿ミュンヘンで誕生。

連絡先:
gijinka☆way.ocn.ne.jp
(☆を@にかえてください)
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