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異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
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タイトル:
 戦国期の大黒天信仰

発表者:久留島元氏

要旨:
本報告では、インドの破壊神マハーカーラに由来する大黒天信仰の概略をふりかえり、日本でも護法神から福徳神に変化していくことを、造像の変化や経典の記述から確認した。室町時代の狂言では比叡山の三面大黒の由来もしばしば語られる。また、福徳神だけでなく武神の一面が忘れられていなかったことは、お伽草子『大黒舞』で盗人を撃退する姿や、近世に入って造られた武神像でも知られる。
一方、戦国期の説話を集めたとされる『義残後覚』では、加藤清正が川で拾った大黒天像を「三千人しか守護しない」と捨てさせ、一万人の大将となることを宣言するが、実際には七千の大将に終わったという。ここには戦国武将にとっても大黒天が重要な神格だったことが反映している。戦国武将が大黒天像を捨てた話は、豊臣秀吉や明智光秀を主人公としても語られており、ひとつの類型である。大黒天の名は起請文のなかでもあげられ、実際に武将たちにも信仰されていた。戦国期の大黒天信仰は、三条西実隆の日記『実隆公記』で例年大黒天供を行っていることからもうかがうことができ、家の繁栄を祈る修法として公家・武家社会に受け入れられ、そこから庶民信仰へ浸透、定着していったことが想定できるだろう。
 
質疑応答では、起請文に列挙される神格の名前や序列が話題になった。大黒天が特に重視されているとわかる事例は管見では少ないが、福神としての知名度が明らかである。大黒天と堅牢地神を並べる意識は、『大黒天神法』において両神が同一とされることによると思われるが、地神が兜跋毘沙門天に通じるからではないかという意見も出された。『義残後覚』説話については、清正の最終的な家来が一万に三千足りない(大黒の守護するぶんだけ少ない)、という笑話の構造になっていることから、座談の場を反映している可能性など説話集の特徴にも話題が及んだ。また、大黒天像を川で拾うことも、川や海で仏像を披露仏教説話のパロディになっている可能性などが議論された。(文・久留島元氏)


※上記は、2026年8月23日(日)オンライン発表の要旨です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。

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タイトル:
 くれぐれひとえに〈「堪忍大明神」〉を信仰すべし
 -一枚刷を通した戯れによる神格化の展開-
発表者:羽鳥佑亮氏
要旨:
〈「堪忍大明神」〉は、心学をはじめとする教訓を伝えるため、その平易な教化のために用いられた題材である。〈「堪忍大明神」〉が広く展開し、教化に用いられた一枚刷として題材とされった際には、護符としての扱いまでうけていた。
そこで、なぜこの紙片が護符としての扱いをなされたのかを解明するため、〈「堪忍大明神」〉護符を含む、教化に用いられた一枚刷と、実際の護符とを、やや総論的ながら比較した。すると、いずれも神仏の霊威を期待することのある点、篤志家により作成や頒布がなされた点、誰かに向けた命令や伝言を記す点などにおいて両者は共通であった。ここから、殊に、〈「堪忍大明神」〉のような徳行の神格化であり、かつやや説明を要するものであれば、これらの要件にあてはまるために、護符とされたことが推測された。周辺の文献やこの性質からみて、〈「堪忍大明神」〉護符は、いわゆる「火用心」札のようなものとされたらしい。
〈「堪忍大明神」〉はまた、神号軸も描かれていた。これらは教訓を伝える文献に挿絵として描かれることが多いが、実際に作成されたものも現存する。どうやら、徳の高いとされた人物に揮毫を依頼されたらしい。そして、これに対する扱いから、〈「堪忍大明神」〉神号軸は、〈「堪忍大明神」〉護符を拡大したものであり、いずれも、礼拝されていたことが確認された。
質疑応答では、現在における貼紙の、諧謔を帯びたものとの関わりや、また、当時の文献の確認などが行われた。いずれも、教化に関わる一枚刷と関わることであり、今後の課題としたい。(文・羽鳥佑亮氏)


※上記は、2026年7月31日(土)オンライン発表の要旨です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。

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タイトル:
 『岩舩山略縁起』と高勝寺の卒塔婆供養
発表者:林京子氏
要旨:

・高勝寺が所在する角礫凝灰岩の岩山である岩船山(172M)は、下野国、下総国、上野国、常陸国(現群馬県・埼玉県・茨城県)の国境近くに位置する。岩船山の北端には「岩船」と呼ばれる船型の巨岩がありにはその上に生身の地蔵が出現したとされる戦国末期1570年ごろから徐々に供養霊場化し、近世に入り日光東照宮の再造営と共に天台宗寺院高勝寺が整備された。春秋の彼岸には多くの人が塔婆供養に訪れる。塔婆を本堂脇に置く=「建てる」のは山の高い所の石地蔵の前に置くのが良いとされ、高ければ高いほど後生が良いとされ、人々は争って裏山の高いところに登った現在は危険なので卒塔婆を下に置く。


・享保4年(1719)岩船地蔵は流行神となり関東各地を巡行し、その後享保8(1723)年には下総銚子で、享保17年(1732)延享元年(1744)明和三年(1766)寛政6年(1794)に江戸で出開帳。


・高勝寺には『下野州岩舩山縁起』と『下野州岩船地蔵菩薩縁起』以外に『下野國岩舩山畧縁起』(以下『略縁起』)が知られ、九州から東北まで版本写本10本が現存。出開帳や居開帳で配布と推測される。これは『仮名縁起絵巻』から生身の地蔵出現の物語と2回の出開帳での御利益を抄出して版行したもの。延享元年4月12日までの記事があるので、それ以降に作成。明和三年の三回目の江戸出開帳のために準備作成されたか。


・『略縁起』は生身の地蔵の出現の話と、享保17年、延享元年の江戸出開帳での霊験が6紙に書かれている。生身の地蔵の出現は金色の光を放つ地蔵に変身と淡々と記述され、再び岩船山に来た明願が見出した自然湧出の霊像
これこそが出開帳の本尊=明願が拝した生身の地蔵である→略縁起のクライマックス


・塔婆は経年劣化してしまうので石塔の悉皆調査を行う→十八世紀末の死者から石塔が建立され、建立者は近隣住民→岩船山は周辺住民による石塔建立・経木塔婆供養の場であることが確認された。


・近代以降交通インフラの整備で参詣者地域が拡大し、敗戦後は戦死者遺族の思いを受け止める場となり高勝寺のバブル期到来→祖霊説をとる学者が来山して高勝寺は死者の霊魂の集まる場所とする通説が形成。


・近世の岩船地蔵尊の現世利益の喧伝の契機は出開帳でありそれを普及したのが『略縁起』。


しかし近隣住民にとっては死者を供養する場であり、彼岸限定のエンタメランドでもあった。


【今回の発表で気が付いた点】


明願の木像は開帳の宝物として作成されたものと考えるべきで、岩船山で死者を供養するのは


「生身の地蔵」でよいのではないか。


【今後の課題】


石塔の再悉皆調査を行い、年号と建立者地域の相関を考察したい。


(文・林京子氏)





*これは2025年11月23日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第161回の要旨です。
*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は12月27日(土)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。

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タイトル:
 牛天神貧乏神祭祀伝承に関する再攷


発表者:
 羽鳥佑亮氏

要旨:
本発表では、『耳袋』巻之二「貧窮神の事」などにおいて、当時の世間話とし記録された、牛天神に関わるところにおいて貧乏神を祭祀したとする言説を、仮に「牛天神貧乏神祭祀伝承」として俎上に載せた。先行研究においては、『耳袋』当該話を、何らかの災厄をもたらす神格を祀り福徳を得ようとする事例として引用がなされてきた。これには、『耳袋』当該話と類話とされ、また、牛天神貧乏神祭祀伝承を記す、『兎園小説』第九集「窮鬼」も、いわばこの論を補うかたちで用いられてきた。
しかし、『兎園小説』当該話には引用元の提示がある。『四方のあか』巻上「日ぐらしの日記」だが、これについては言及されることがなかった。
そこで、『四方のあか』当該話を確認すると、貧を追うために祀るもので、貧乏神を祀り福徳を得ようとするものではなかった。しかも、これを言いだしたのは狂歌を専らとする千里亭白駒という人物であり、信用に値するか疑問で、戯れに述べたとも想像できる。
これとともに、牛天神別当泉松山竜門寺により、貧乏神を「黒暗天」とし、御影を描いた護符が出されていた。明治の神仏分離にともない別当泉松山竜門寺が廃絶し、北野神社となると、これにともない、「黒暗天」祠は「太田神社」となる。当時の雑誌などからは、このときから北野神社では、牛天神貧乏神祭祀伝承を積極的に公言しないさまがみてとれた。
これらから、牛天神貧乏神祭祀伝承は、江戸時代後期の戯れや世間話をもとに、牛天神別当泉松山竜門寺による関与が濃厚であると考えられる。
ひとつの発表としてはひろえなかった、断片的な記事も多い。今後の課題としたい。
(文・羽鳥佑亮氏)


*これは2025年7月27日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第156回の要旨です。

*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は8月31日(日)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。

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タイトル:
 鯰絵も繁殖する
 -
地震錦絵の表現形式-


発表者:
 増田こころ氏

要旨:
本発表では、安政地震地に爆発的な流行を見せた「鯰絵」の、特にその表現形式に注目し、受容やその来歴について考察をした。

発表にあたっては、鹿島明神や人間が武器をもって鯰を攻撃する「退治型」、鯰が神仏と対峙した姿が描かれ、鯰の申し開きと地震よけとされる梵字が書かれる「護符型」、人間が鹿島明神や鯰を拝みながら願いや感謝を口にする「祈願型」、地震によって儲け遊び歩いた職人や、施行を渋ったため揶揄された金持ちが描かれる「諷刺型」、歌舞伎の台詞や御品書きを捩ったり、浮世絵をトレースしたりと思しき「模倣型」と大きく分類した。
これらは、それぞれが別の来歴をもち、安政地震以前からたびたび発行されていた出版物の形式に則って作成されていると考えられる。

また、受容を明らかにすることを発表目的としたものの、想像にとどまり、改めて各々の形式ごとに鯰絵という枠を超えて検討する必要がある。今後の課題としたい。

質疑では、「護符型」も護符を模しているという意味で「模倣型」に含まれるだろう、という分類についてのご指摘や、麻疹流行時の錦絵や教化戯文である「心躰安樂丸」の受容との関連、また調査方法についても様々ご教示いただいた。

受容の問題も含め、直近の課題は「護符型」に類する一群である。先述の通り、災害時の出版物に留まらず広くこれを集め検討の材料としたい。

また、皆さまからの、ご指摘ならびにご教示へ、この場をお借りして感謝申し上げます。
(文・増田こころ氏)


*これは2025年6月29日(日)にオンライン(Zoom)で開催された第156回の要旨です。

*上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
*次回は7月27日(日)15時にオンライン(Zoom)で開催予定です。




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プロフィール
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異類の会
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17
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誕生日:
2009/09/15
自己紹介:
新宿ミュンヘンで誕生。

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