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異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
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タイトル:
「天狗と修験者」再考

発表者:
久留島 元

要旨
 このたび白澤社より『天狗説話考』を出版していただいた。
 https://hakutakusha.co.jp/book/9784768479995/
 拙著で言及したが、これまで天狗研究は民俗学によってリードされており、在野の研究者として柳田国男や知切光歳の一連の著作があるほか、研究書としては宮本袈裟雄『天狗と修験者:山岳信仰とその周辺』(人文書院→法蔵館文庫)がある。しかし修験道研究はその後急速に史料の開拓が進んだ。拙著でもその成果の一部を反映し、これまで印象論として語られていた「南北朝期における天狗像の変化」などを修験道史との関係によって位置づけた(つもり)である。すなわち南北朝期以降、天狗説話は修験道による寺社縁起などに積極的に取り込まれ、山岳修行者を奉仕したり、霊場を護る護法神として認識されたりした。そうした修験道側の言説のなかで、天狗は「山の神」とも同一視され、仏敵、魔物という認識から「山の神霊」としての天狗像へと変化していくのである。
第一三五回異類の会(二〇二三年七月三〇日)に毛利恵太氏によって報告された「白峯相模坊」も、近世に流行した四国巡礼の影響下で「本地不動にて南海の守護神」(『四国偏礼霊場記』)と位置づけられ、「山の主」(『香西記』)と同一視されたことがわかっている。
 ところで相模坊は西行が崇徳院霊を慰めたという謡曲「松山天狗」に登場する天狗だが、その由来については、先行研究で『保元物語』に現れる三井寺(園城寺)の相模阿闍梨勝尊かと指摘されるものの確証はない。
 金輪運岳紹介の史料では「満位の行者相模坊道了」が天狗になって東へ飛び去ったといわれ(三井寺天狗杉の由来)、このため現在では神奈川県最乗寺の道了尊になったとも説明されるが、道了尊との関わりはよくわからない。金輪氏の紹介する資料は所在不明のため調査中だが、園城寺周辺には複数の「相模坊」が語られていたようである。なお近年では西行と寺門派修験の影響が強いことが注目されており、西行伝承とともに寺門派修験によって相模坊説話が白峯寺に持ち込まれた可能性があることを指摘しておきたい。
 このように、天狗説話の担い手としての山岳修験者(山伏)の活動が垣間見える事例がいくつかある。愛宕縁起に登場する日羅坊もそのひとつである。
日羅は本来、『日本書紀』に百済達卒として登場する実在の武人で、暗殺され肥前葦北(熊本県)に葬られたという。しかし聖徳太子伝承では百済の高僧と造型され、聖徳太子の師とも位置づけられた。しかし戦国時代には日羅は愛宕権現と同一とも考えられており、徳川家康、加藤清正らに信仰されていたという。また愛宕白雲寺縁起では、天竺の天狗日羅が震旦の善界、愛宕の太郎とともに愛宕山を開いた役行者、泰澄を嘉したとされる。
 実は日羅を開基とする寺は大阪・兵庫や、熊本・宮崎・大分などに分布し、聖徳太子と関わる異国の高僧として伝承される。現在は廃寺だが甲信地方にも日羅伝承とともに勝軍地蔵法を伝える堂寺があったといわれ、愛宕信仰との関わりが推測される。聖徳太子信仰のなかで神格化された渡来人日羅は、中世修験の伝承で重視されていたようである。
 日羅伝承の担い手とも考えられる愛宕山伏は、豊臣秀吉の時代に規制が加えられ、判形を所持しなければ活動を認められなかったという。逆に言えばそれ以前は真偽定かでない山伏が横行していたということであり、野盗、野武士に近い存在としても認識されていた。戦勝祈願の勝軍地蔵を奉じ、野盗に近いほどの武力をもった存在であった愛宕山伏は、戦国時代において善くも悪くも大きな存在感があり、そうした山伏たちと同一視されることで天狗像も大きく変化したと考えられる。
 質疑応答では「八天狗」が相模坊、太郎坊などの天狗に比定された経緯や、「八天狗」として信仰対象になっている例など、天狗信仰と文芸の関係について話題が広がった。また古代の説話では天狗は必ずしも山だけに結びつく存在ではなかったが、修験道との関わりによって山の神霊という側面が重視されるようになったことを、改めて指摘した。
(文・久留島元)
※これは12月24日(日)にオンラインで開催された第139回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。

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第139回開催のご案内

日時:12月24日(日)15:00 
会場:オンライン(Zoom)

タイトル:

「天狗と修験者」再考
発表者:久留島元氏
要旨:

このたび白澤社さまより『天狗説話考』を出版していただいた。

通史的な天狗研究といえば、すでに古典的名著と言ってよい知切光歳の一連の著作があり、研究書としては今年文庫化もされた宮本袈裟雄『天狗と修験者:山岳信仰とその周辺』がある。


宮本の論考は『怪異の民俗学 天狗と山姥』(河出書房)にもおさめられるが、副題のとおり修験道史研究の立場から天狗の民俗伝承や、図像的特徴を考察したものである。しかし書籍の後半は「里修験」など民間信仰の担い手としての修験者を考察することにあてられ、天狗説話とのつながりは必ずしも重視されなかった観がある。


私は文学研究の立場から天狗研究に入り、修験道史研究はまだ勉強中の身の上であるため宮本著の位置づけを正確に行うことはできない。しかし拙著ではこれまで自明視されてきた山伏と天狗の関係を見直し、山伏と天狗の関係も歴史的に形成されてきたものと位置づけた。


改めて天狗説話の担い手としての修験者(山伏)の活動について、参考になりそうないくつかの事例を紹介しつつ、「天狗と修験者」の関係を再考したい。


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タイトル:
日本に於いてミイラはいかに捉えられたか

発表者:
杉山 和也氏

要旨
 本発表ではミイラ、引いてはエジプトが、特に前近代の日本でどのように捉えられてきたか、という問題について、ミイラがどこでどのようにできるのかを説明する説話を中心に考察した。これは現代でもよく知られる「ミイラ取りがミイラになる」ということわざの成立と深く関わる説話であるが、従来、研究が乏しい。
 ミイラという日本語は17世紀のキリシタン関係の文献に現れ、没薬という樹脂の薬品を意味していた。17世紀後半頃からは錯誤が生じてか、舶来の枯骸の薬を意味するようになる。偽薬が横行するほど、この洋薬は流行した。こうした時代性を背景に上述の説話が諸種の文献に見られるようになる。1711年に130歳で亡くなったとされる渡辺幸庵に対するインタビューをまとめた『渡辺幸庵対話』〔宝永6年(1708)8月9日、対話〕という文献を始め、貝原益軒『大和本草』、後藤梨春『紅毛談』、為永春水『閑窓瑣談』、松葉軒東井『譬喩尽』などに、この説話が見受けられるが、内容には少しずつ違いが見られる。特にミイラができる場としての砂漠に関する描写にはバリエーションがあり、『渡辺幸庵対話』に所載の話では砂漠を小舟で移動するとされている点は、16世紀成立の『東大寺大仏縁起』や19世紀初頭の『絵本西遊記』初編などで、玄奘三蔵が、タクラマカン砂漠を移動しているはずの場面で、波打つ水面を渡る船が描かれていることと繋がる問題だろう。つまり、水が豊富にある湿潤な日本列島に於いて、砂漠のような空間を文献等の情報を主に頼りとしつつ理解し、具体的に思い描くのは、古来、容易ではなかったことを示唆している。前近代の日本では、このように限られた情報と既知の事物に基づいて〈想像〉をめぐらせ、そして〈創造〉をもって補いつつ、遥か遠方の未知の世界のミイラ、引いてはエジプトを捉えていたことが窺われる。
 なお、今回の発表内容は、『中東・北アフリカ日本研究ジャーナル』第2号に刊行予定である。 今回の発表では、特に西洋からのミイラに関する情報の伝来とその受容の問題に焦点を絞って考察を行った。前近代日本における漢文の文献を介しての「木乃伊」、「蜜人」など、ミイラに関する情報の伝来とその受容、ならびに本発表で扱った西洋由来の情報との照らし合わせの問題については、いずれ稿を改めて論じることとしたい。
(文・杉山和也氏)

※これは11月24日(木)にオンラインで開催された第138回異類の会の報告です。
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第138回開催のご案内

日時:11月23日()15:00 
  ※通常、日曜日に開催しておりますが、今回は勤労感謝の日にあたる木曜日です。

会場:オンライン(Zoom)
タイトル:

日本に於いてミイラはいかに捉えられたか

発表者:杉山和也

 要旨:
 本発表ではミイラ、引いてはエジプトが、特に前近代の日本でどのように捉えられてきたか、という問題について、ミイラがどこでどのようにできるのかを説明する説話を中心に考察する。これは現代でもよく知られる「ミイラ取りがミイラになる」ということわざの成立と深く関わる説話であるが、従来、研究が乏しい。
 ミイラという日本語は17世紀のキリシタン関係の文献に現れ、没薬という樹脂の薬品を意味していた。17世紀後半頃からは錯誤が生じてか、舶来の枯骸の薬を意味するようになる。偽薬が横行するほど、この洋薬は流行した。こうした時代性を背景に上述の説話が諸種の文献に見られるようになる。どの文献に所載の説話でも、ミイラができる地域に関する地理的情報と、ミイラができる場として砂漠について語られるが、いずれについても、〈想像〉と〈創造〉を織り交ぜつつ、遥か遠方の未知の世界の砂漠、ミイラ、引いてはエジプトが描かれているのである。

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タイトル:
魚と野菜の大合戦
 ー『献立合戦笑草』を読むー

発表者:
伊藤 慎吾


要旨:
 寛文 8 年(1668)刊行『軍舞』所収の「うおがせん幷しやうじんもの」は『精進魚類物語』の影響下に成った小編である。これに類する伝本に、『魚類精進合戦』(写 1 冊)及び『魚類扣』(写 1 冊)がある。これらの関係性については旧稿「魚類扣考」(『日本文化研究(國學院大學栃木短期大学)』第5号)で論じた。本発表では、新たに見出した伝本2種を加え、近世における精進魚類物の展開を再検討した。
 その2種はともに上田市立図書館所蔵の写本で、1つは『献立合戦笑草』、もう1つは『魚類合戦』という。検証の結果、天明3年(1783)書写になる『献立合戦笑草』(あらすじは下記参照)は、安永3年(1774)書写の『魚類合戦』を改作したものと考えられる。その改作には信州地方の色合いが見られ、異本形成の実態が窺われる。
 元となった『魚類合戦』はすでに知られている『魚類精進合戦』に近い本文を持つもので、『魚類扣』や『軍舞』の「うおがせん并しやうじんもの」のような謡曲の符号はなく、読み物として流布した系統と思われる。


◆あらすじ◆
 天明元年8月15日の夜、鮭の将軍長尾(ながびれ)は精進方への恨みを晴らすべく、諸国の魚たちを集める。貝たちも与力として参戦することにする。これを聞いた精進方の大将畑山の薯蕷(ながいも)は諸国の野菜たちを招集する。かくて両陣から武将が出て相争い、煮物となったり、向付(むこうづけ)になったりしたのだった。
(文・伊藤慎吾)

※これは10月29日(日)
にオンラインで開催された第135回異類の会の報告です。
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2009/09/15
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新宿ミュンヘンで誕生。

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