異類(人間以外のキャラクター)について研究報告・情報提供・談話をする集まりです。妖怪関連多め。時代や地域は問いません。古典文学・絵巻・絵本・民間説話・妖怪・マンガ・アニメ・ゲーム・同人誌などジャンルを越境する会です。TwitterID: @iruinokai
タイトル:
孫太郎の探索4―またまた孫太郎天狗に連れ回された件
発表者:
林 京子氏
要旨
孫太郎の探索4―またまた孫太郎天狗に連れ回された件
発表者:
林 京子氏
要旨
1、岩船山の孫太郎天狗信仰
・「生身の地蔵出現の霊場」岩船山高勝寺には天狗「孫太郎尊」が祀られ、飛行する稲穂をくわえた狐に乗るカラス天狗のお札が頒布されている。17世紀初めには岩船山に魔=天狗がいたことが『御鎮座記』に書かれ、18世紀初めの幕府が作らせた街道絵図にも孫太郎の名前の堂舎が複数描かれる。天台宗寺院の常行堂の背後を守るのが摩多羅神。高勝寺は山王一実神道に沿って創建された寺院なので、東照三所権現の一つである摩多羅神がいても全く不思議はない。高勝寺の周辺では中世は吒枳尼天信仰が盛んで、近世には吒枳尼天と摩多羅神が習合した。さらに得体のしれない強力な力を持つという共通性から、仏法の守護神である摩多羅神と、仏法の敵である天狗が、性格が真逆であるのに習合したのではないか。そうすると岩船山の孫太郎天狗とは摩多羅稲荷天狗なのかもしれない。
2、佐野市の孫太郎稲荷と佐野氏
・岩船山の近隣の佐野市伊賀町には通称「孫太郎稲荷」がある。稲荷と通称されているが、その本体は天狗である。佐野の孫太郎稲荷は佐野氏の祖先神「藤原(足利)孫太郎家綱」崇拝の変奏でもある。唐沢山城に祀られた吒枳尼天が、佐野城の移転で現在の孫太郎稲荷に習合したと考えられ、岩船山の孫太郎と同じ天狗と推測される。
3,薬師寺の孫太郎稲荷
・薬師寺の境内社孫太郎稲荷は狐であり天狗ではない。「孫太郎稲荷は領主によって姫路を所払いされ社人がご神体を持ってあちこちさまよい、縁があって寛政ごろに当地に来てここに鎮座した」とされ、伏見稲荷との関連も示唆される。佐野に孫太郎稲荷を再興した佐野孫太郎義綱の名前から「孫太郎稲荷」であるという説も存在する。
4、姫路市の孫太郎稲荷
・姫路の「孫太郎稲荷」は「春日神社」の境外末社で「刃の宮地蔵尊」と隣り合い、社殿がなく「孫太郎稲荷大神」と彫られた石碑が建つだけ。能「小鍛冶」が姫路の在地伝承化し、地蔵と合体している。孫太郎狐は芝原村に留まったが、一人暮らしの老婆が孫太郎狐に食物を与えていた。孫太郎は老婆の恩に報いる為姫路城の本田家(姫路領主)の金蔵に忍び込み千両箱を盗み出して老婆に与えたことが露見し、藩主本田忠政から国拂いを命じられ、やむなく書置きを残して姫路を去ったという。
芝原村周辺の鍛冶職の人々の信仰と能の「小鍛冶」が合体し、三条宗近の相槌を打った「孫太郎狐」は稲荷神の化身として信仰され、境界のカミとして祀られていた石地蔵と三条宗近が合体して刃の宮地蔵尊になったようだ。何らかの理由で近世のはじめに孫太郎稲荷は破却されたが、姫路に移住した佐野氏が祀った「孫太郎稲荷」が「姫路の孫太郎稲荷」と習合した可能性も完全否定はできない。姫路の孫太郎稲荷の成立は重層的である。
5、ここまでのまとめ
・孫太郎とは親の代が早世し孫が家督を継いだことを示す記号(=孫嫡子)または太郎や次郎(=宗家)から少しへりくだった位置にいるという序列を示す記号で個別名ではない可能性もある。
・近世は祭神が吒枳尼天でも天狗でも特に問題が無かったが明治以降、神社として存続するために祭神になんらかの合理的統一的な意味付けが必要となり、それが孫太郎の迷走を生む?
6、福岡の「中司孫太郎稲荷」
・福岡市中央区西公園13-10に「正一位中司孫太郎稲荷」が存在。この付近に点在していた多数の稲荷社を一ヶ所に集めて祀ったのが始まりとされる。その裏山斜面には、30体以上の神体を祀る大小の祠がぎっしり並び、ひょんなことから「サイバー神社」となってしまった。社務所の人の話では、中司孫太郎神社の「中司」は人名なのか、地名なのか、まったくわからないが、大昔に伏見稲荷から分霊としたとも聞いているらしいが、中司孫太郎稲荷は松源院・東照宮の裏山に位置するという高勝寺と同じ地政学的な位置。ここに摩多羅神がいても全く不思議はない。福岡まで行ったのに、スタート地点に連れて行かれてしまった。天狗おそるべし。
7、岩船山の孫太郎尊拝殿内の新展開
一方、岩船山では孫太郎尊本堂の脇の絵馬堂にあったものが、壁面に掛け直されていた。奉納額は40個ほどであったが、元旦講のものや、剱の形のものもあり孫太郎尊への祈願者は剱を奉納するとされていた先行研究と一致する。また、孫太郎本殿は脇障子や羽目板彫刻、天井画もあったが、近代以前の奉納物が廃棄されている為詳細は不明。
8、おわりに
「吒枳尼と飯綱とは異名異体にして而も一体ならん」(『和漢故事群談』)狐の尾に宝珠を造るのも、『古今著聞集』巻六「咜祇尼天生活事幷福天神事」に拠るもので、宝珠は福徳を与えるものである、とされていることがわかった。また孫太郎尊の画像は、『飯綱権現御縁起文』の一部を画像化したものとも考えられる。江戸時代の絵図の「福躰孫太郎」とは、吒枳尼天=稲荷の姿のものを指していたとも考えられ、狐の形の孫太郎もあったということなのだろうか?管見の限りで最も古いお札(小山博物館所蔵)は「奉修狗賓剛」という文字のみのもの。一方昨年放映された「仮面ライダーギーツ」の主人公のギーツは吒枳尼天と思われる。その最終回は高勝寺でロケが行われ、孫太郎参道の前に九尾の狐の姿で吒枳尼天ギーツが祀られた。社の背後は鐘楼である。仮面ライダーギーツでは、世界が創り替えられる時鐘の音が響き渡る。その音は戦時に供出されてしまった高勝寺の鐘の音なのだろうか。得体のしれない吒枳尼天、摩多羅神という中世密教の尊格に、現在のメディア製作者(と発表者)が引き寄せられるのは、必然なのか偶然なのか。発表者はこのところ、狐や天狗に化かされて日本中連れ回されているが、これで終わりにしてもらえるのだろうか(涙)
9、質疑応答から
・狐の尾や宝珠については『古今著聞集』以外にも『渓嵐拾葉集』にも言及されており、その信仰は重層的で、各時代ごとに重なり合い膨れ上がるが、その根本は中世密教的な、得体のしれない障礙神である吒枳尼天や摩多羅神の習合があるだろう。
・高勝寺の奉納額は、詳細な記録の作成が必要で、そこから意外な広がりがみられる可能性がある。暖房が全くない環境なので、3月以降に再調査を行いたい。
・天狗は山の神であり、山の神とは人の生死を知る神であることが、昔話などから推察される。それゆえに戦死除けの祈願が為された。また孫太郎尊は中世には釼が峰(けんがみね)という岩船山で最も高い岩山の峯に住まうと考えられ、そこから「剱の形」=孫太郎尊という理解が為され、祈願の報賽が剱形とされたと推測される。或いは相模大山の「お太刀上げ」(祈願には太刀を奉納する)の模倣も考えられる。
・福岡の「中司孫太郎稲荷」の奥に祀られる多くの祠については、アンヌ・ブッシイ『神と人のはざまに生きる』東京大学出版会、2023(3版)が非常に参考になるので、興味のある方は、ぜひお読みいただきたい。発表者は単に岩船山の宗教文化史調査を行っているだけで、特に天狗を調べたいわけでもなく、キツネや稲荷信仰に関心があるわけでもないのに(それ故?)孫太郎に連れ回されて疲労困憊である。このままどこに連れて行かれるのか心もとない今日この頃である。大変拙い発表を聞いて頂いた皆様に心から感謝いたします。
(文・林京子氏)
※これは1月14日(日)にオンラインで開催された第140回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
※これは1月14日(日)にオンラインで開催された第140回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
PR
第140回開催のご案内
日時:1月14日(日)15:00
会場:オンライン(Zoom)
日時:1月14日(日)15:00
会場:オンライン(Zoom)
タイトル:孫太郎の探索4
またまた孫太郎天狗に連れ回された件
またまた孫太郎天狗に連れ回された件
発表者:林 京子氏
要旨:
栃木県栃木市の岩船山には「孫太郎尊」と呼ばれる天狗の社がある。佐野市の「孫太郎稲荷」の本体は天狗で、姫路の孫太郎稲荷と奈良の薬師寺の孫太郎稲荷の本体は狐であった。前回の発表後、孫太郎という名前は個別名ではなく、地位や継承権の序列(長男が早世し、孫が家督を継いだ=孫嫡子、または太郎や次郎という直系に遠慮した地位である)を表わす名称の可能性もあり、その場合はそれぞれの孫太郎は特に関係がないと思われる。
ところが、成り行きで2023年の10月に福岡市の中司(なかつかさ)孫太郎稲荷に参詣することができたが、そこは民間信仰の霊場だった。一方現在の岩船山の孫太郎尊を管理する高勝寺は、突如孫太郎稲荷拝殿内を整備しはじめ、そこには民俗学的にも興味深い絵馬や奉納物が多数見られる。今回は知られざる岩船山の孫太郎尊拝殿内部と、福岡市の中司孫太郎稲荷の画像をお見せし、重層的な「孫太郎信仰」の一端と発表者の妄想を紹介したい。
タイトル:
「天狗と修験者」再考
発表者:
久留島 元氏
要旨
「天狗と修験者」再考
発表者:
久留島 元氏
要旨
このたび白澤社より『天狗説話考』を出版していただいた。
https://hakutakusha.co.jp/book/9784768479995/
拙著で言及したが、これまで天狗研究は民俗学によってリードされており、在野の研究者として柳田国男や知切光歳の一連の著作があるほか、研究書としては宮本袈裟雄『天狗と修験者:山岳信仰とその周辺』(人文書院→法蔵館文庫)がある。しかし修験道研究はその後急速に史料の開拓が進んだ。拙著でもその成果の一部を反映し、これまで印象論として語られていた「南北朝期における天狗像の変化」などを修験道史との関係によって位置づけた(つもり)である。すなわち南北朝期以降、天狗説話は修験道による寺社縁起などに積極的に取り込まれ、山岳修行者を奉仕したり、霊場を護る護法神として認識されたりした。そうした修験道側の言説のなかで、天狗は「山の神」とも同一視され、仏敵、魔物という認識から「山の神霊」としての天狗像へと変化していくのである。
第一三五回異類の会(二〇二三年七月三〇日)に毛利恵太氏によって報告された「白峯相模坊」も、近世に流行した四国巡礼の影響下で「本地不動にて南海の守護神」(『四国偏礼霊場記』)と位置づけられ、「山の主」(『香西記』)と同一視されたことがわかっている。
ところで相模坊は西行が崇徳院霊を慰めたという謡曲「松山天狗」に登場する天狗だが、その由来については、先行研究で『保元物語』に現れる三井寺(園城寺)の相模阿闍梨勝尊かと指摘されるものの確証はない。
金輪運岳紹介の史料では「満位の行者相模坊道了」が天狗になって東へ飛び去ったといわれ(三井寺天狗杉の由来)、このため現在では神奈川県最乗寺の道了尊になったとも説明されるが、道了尊との関わりはよくわからない。金輪氏の紹介する資料は所在不明のため調査中だが、園城寺周辺には複数の「相模坊」が語られていたようである。なお近年では西行と寺門派修験の影響が強いことが注目されており、西行伝承とともに寺門派修験によって相模坊説話が白峯寺に持ち込まれた可能性があることを指摘しておきたい。
このように、天狗説話の担い手としての山岳修験者(山伏)の活動が垣間見える事例がいくつかある。愛宕縁起に登場する日羅坊もそのひとつである。
日羅は本来、『日本書紀』に百済達卒として登場する実在の武人で、暗殺され肥前葦北(熊本県)に葬られたという。しかし聖徳太子伝承では百済の高僧と造型され、聖徳太子の師とも位置づけられた。しかし戦国時代には日羅は愛宕権現と同一とも考えられており、徳川家康、加藤清正らに信仰されていたという。また愛宕白雲寺縁起では、天竺の天狗日羅が震旦の善界、愛宕の太郎とともに愛宕山を開いた役行者、泰澄を嘉したとされる。
実は日羅を開基とする寺は大阪・兵庫や、熊本・宮崎・大分などに分布し、聖徳太子と関わる異国の高僧として伝承される。現在は廃寺だが甲信地方にも日羅伝承とともに勝軍地蔵法を伝える堂寺があったといわれ、愛宕信仰との関わりが推測される。聖徳太子信仰のなかで神格化された渡来人日羅は、中世修験の伝承で重視されていたようである。
日羅伝承の担い手とも考えられる愛宕山伏は、豊臣秀吉の時代に規制が加えられ、判形を所持しなければ活動を認められなかったという。逆に言えばそれ以前は真偽定かでない山伏が横行していたということであり、野盗、野武士に近い存在としても認識されていた。戦勝祈願の勝軍地蔵を奉じ、野盗に近いほどの武力をもった存在であった愛宕山伏は、戦国時代において善くも悪くも大きな存在感があり、そうした山伏たちと同一視されることで天狗像も大きく変化したと考えられる。
質疑応答では「八天狗」が相模坊、太郎坊などの天狗に比定された経緯や、「八天狗」として信仰対象になっている例など、天狗信仰と文芸の関係について話題が広がった。また古代の説話では天狗は必ずしも山だけに結びつく存在ではなかったが、修験道との関わりによって山の神霊という側面が重視されるようになったことを、改めて指摘した。
(文・久留島元)
※これは12月24日(日)にオンラインで開催された第139回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、必ず発表者名を明記してください。
第139回開催のご案内
日時:12月24日(日)15:00
※来聴歓迎!
初めて参加する方はX(Twitter)
@NarazakeMiwa
までDMを。
日時:12月24日(日)15:00
会場:オンライン(Zoom)
タイトル:
「天狗と修験者」再考
発表者:久留島元氏
要旨:
このたび白澤社さまより『天狗説話考』を出版していただいた。
通史的な天狗研究といえば、
宮本の論考は『怪異の民俗学 天狗と山姥』(河出書房)にもおさめられるが、副題のとおり修験道史研究の立場から天狗の民俗伝承や、
私は文学研究の立場から天狗研究に入り、
改めて天狗説話の担い手としての修験者(山伏)の活動について、
初めて参加する方はX(Twitter)
@NarazakeMiwa
までDMを。
タイトル:
日本に於いてミイラはいかに捉えられたか
発表者:
杉山 和也氏
要旨
日本に於いてミイラはいかに捉えられたか
発表者:
杉山 和也氏
要旨
本発表ではミイラ、引いてはエジプトが、 特に前近代の日本でどのように捉えられてきたか、 という問題について、ミイラがどこでどのようにできるのかを説明 する説話を中心に考察した。これは現代でもよく知られる「ミイラ 取りがミイラになる」 ということわざの成立と深く関わる説話であるが、従来、 研究が乏しい。
ミイラという日本語は17世紀のキリシタン関係の文献に現れ、 没薬という樹脂の薬品を意味していた。 17世紀後半頃からは錯誤が生じてか、 舶来の枯骸の薬を意味するようになる。偽薬が横行するほど、 この洋薬は流行した。 こうした時代性を背景に上述の説話が諸種の文献に見られるように なる。 1711年に130歳で亡くなったとされる渡辺幸庵に対するイン タビューをまとめた『渡辺幸庵対話』〔宝永6年(1708) 8月9日、対話〕という文献を始め、貝原益軒『大和本草』、 後藤梨春『紅毛談』、為永春水『閑窓瑣談』、松葉軒東井『 譬喩尽』などに、この説話が見受けられるが、 内容には少しずつ違いが見られる。特にミイラができる場としての 砂漠に関する描写にはバリエーションがあり、『渡辺幸庵対話』 に所載の話では砂漠を小舟で移動するとされている点は、 16世紀成立の『東大寺大仏縁起』や19世紀初頭の『 絵本西遊記』初編などで、玄奘三蔵が、 タクラマカン砂漠を移動しているはずの場面で、 波打つ水面を渡る船が描かれていることと繋がる問題だろう。 つまり、水が豊富にある湿潤な日本列島に於いて、 砂漠のような空間を文献等の情報を主に頼りとしつつ理解し、 具体的に思い描くのは、古来、 容易ではなかったことを示唆している。前近代の日本では、 このように限られた情報と既知の事物に基づいて〈想像〉 をめぐらせ、そして〈創造〉をもって補いつつ、 遥か遠方の未知の世界のミイラ、 引いてはエジプトを捉えていたことが窺われる。
なお、今回の発表内容は、『中東・ 北アフリカ日本研究ジャーナル』第2号に刊行予定である。 今回の発表では、特に西洋からのミイラに関する情報の伝来とその 受容の問題に焦点を絞って考察を行った。 前近代日本における漢文の文献を介しての「木乃伊」、「蜜人」 など、ミイラに関する情報の伝来とその受容、 ならびに本発表で扱った西洋由来の情報との照らし合わせの問題に ついては、いずれ稿を改めて論じることとしたい。
なお、今回の発表内容は、『中東・
(文・杉山和也氏)
必ず発表者名を明記してください。
※これは11月24日(木)にオンラインで開催された第138回異類の会の報告です。
※上記の文章を直接/間接に引用される際は、