式水下流氏・永島大輝氏
福島(いわき)・栃木の調査報告 河童・狐を中心に
永島大輝、式水下流の二人で四月に行ったいわき市の調査報告、
①湯本豪一コレクションにおける猫鬼、
現地に行き、いわき市暮らしの伝承郷で、湯本豪一『
②家伝薬として伝わる河童の膏薬等河童に関する調査報告
①
話を要約すると実際にはその家では河童の膏薬として伝わっている
『怪異・妖怪伝承データベース』より「河童 薬」で検索をかけた結果から分布と類型をまとめた。
同じくいわき市内では河童の祠を祀っている場所もあり、
和歌山でのガシャンボの足跡の話とからめ、妖怪は「
③狐の話を中心に栃木県の調査報告
狐の話は現在でも多く聞くことができる。栃木県内の狐の嫁入り(
オトカとは、お稲荷の音読みだろうが、
また、那須の九尾の狐伝説は「しもつかれ」の由来に関係があり、
「しもつかれ」は初午の食べ物であり、稲荷の祭日である、
④写真
狐などが写真に写ったとされる事例を紹介し、
以上の調査・報告を行った。
・式水まとめ
十数年、
・永島まとめ
調査では多くの方に優しくしていただいた。
無理なのはわかったうえで、
今回アカデミックな集まりというよりも「お化け友の会」
報告では、妖怪というのは「感覚を共有する」
妖怪に関して「いるの いないの」という問いを避けてきたと思う(参考『妖怪談義』
繰り返しになるが、多くの方に優しくしていただいた。
(文・永島大輝/式水下流)
以上、6月30日、國學院大學にて開催された異類の会の報告でした。
発表者: 伊藤慎吾
現在普及している翻刻本の誤りを指摘した。
詳細は下記URLに挙げておいたので、ご参照願いたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/warszawa11045/37108153.html
江戸期の随筆に記録された髪切りや絵画や狂歌に描かれた髪切りの表象を辿り、岡本綺堂「歩兵の髪切り」(『半七捕物帳』)・澁澤龍彦「髪切り」(『うつろ舟』)といった髪切りが登場する文学作品の分析を試みた。
綺堂の「歩兵の髪切り」では髪切りの手触りとして「天鵞絨か獣の毛のように」という文がある。これは歌川芳藤作の浮世絵『髪切の奇談』に「恰も天鵞絨のごとくなりしとぞ」という記述を意識したものである可能性がある。また作品内で、正体不明の髪切りに対しての解釈が転移していくが、これらの解釈は江戸期の随筆に書かれているものと重複するところがある。従来の髪切りにない要素の付け加えとして、作品の最後に髪切り事件の被害者が死亡するという記述がある。これは理屈のわからない怪談を目指した綺堂の意識のあらわれであろう。
澁澤龍彦の「髪切り」においては、髪切りが修験者のしわざであるとされる。朝川善庵『善庵随筆』や喜多村信節『嬉遊笑覧』といった随筆において髪切りの正体が修験者と示唆される部分と重複する。澁澤龍彦の「髪切り」においては、髪とそれを切られるという被害を通して、主人公であるお留伊の女性の自覚が描かれていると考えられる。
文学作品内に描かれる怪異を、その怪異の背景を含めてテキストに還元することによって、明らかになる創作意識もあるのではないだろうか。
今後の課題としては、映像化資料の分析、髪切りに対する細かな調査(髪切虫との関連、海外で同様の怪異があるか)等があげられた。(文・原辰吉氏)
以上、8月8日例会の要旨でした。
※次回は9月30日(土)14時開催です。
「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」
今回は「天狗は悪魔か天使か、はたまた妖精か――日欧翻訳実践における意味の変遷をめぐって」と題して、日本の知識人たちが、西洋の何を「天狗」という日本妖怪に当てはめたのか、翻訳実践の変遷を追う内容の発表を行なった。
まず、16世紀後半~17世紀前半のキリシタン文献においては、天狗はキリスト教の「悪魔」の翻訳に用いられていたことを紹介した。「正しき教え」であるキリスト教に対抗し、また自在に天空を飛翔する悪魔たちは、仏法の敵であり、やはり翼をもって空を飛ぶ天狗と宗教的・倫理的に同一視されたのである。一方で天使のほうは「アンジョ」と音訳されるに留まった。その後、禁教とともに西洋の宗教情報はほとんど入らなくなってくる。蘭学が本格的に盛んになった18世紀末、ふたたび西洋(オランダ語)の言葉に「天狗」という訳語が割り当てられることになったが、このとき蘭学者たちが想定していたのは、悪魔ではなく天使、とくに智天使(ケルビム)のほうであった。
なぜ彼らはキリシタンとはまったく概念的に反対の存在を用いることになったのだろうか。今回の発表では、18世紀末~19世紀前半、依然としてキリスト教の体系的な知識を得ることは困難だったが、断片的な知識を得ることは可能だったため、そこから成立したのが「天使は天狗である」という等式だったのではないか、と考えた。具体的には、天狗も天使も翼が生えており、人間のような姿をしており、超常的な力をもち、場合によって神仏との関係が前景化されることもあった。脱宗教化された天使は、倫理的な共通点ではなく、形態的・能力的な共通点から、当時やはり脱宗教化されていた天狗と比較可能な存在になったのである。
一方、20世紀前半、浅野和三郎らの神霊主義において、天狗は(今度は)西洋の妖精と類似することが指摘されるようになるが、近代化した日本において、もはやこの意見は一般に受け入れられることはなかった。
フロアとのディスカッションにおいては、『日葡辞書』ではどのような訳語が用いられていたか、前近代の漢訳キリスト教文献ではどうなっていたか、明治初期の西洋人による翻訳ではどうだったか、といった、さまざまなコンテクストにおける「翻訳」事例へと内容を広げる質疑が交わされた。また、天狗ではなく鬼はどのように翻訳に使われたか・翻訳されたか、という観点からのコメントもあった。確かに鬼は、天狗と比較すると現代でも幅広く訳語として用いられている。この違いは何だったのだろうか。日本における「鬼」理解が大きく関わってくるだろうが、今後の検討課題である。
翻訳を通して「異類」の理解を捉えようとする試みはこれまでほとんど行なわれてこなかったが、異文化からの視点は思わぬ発見をもたらす可能性もある。今回はおもにオランダ語との比較を行なったが、今後はほかの欧米・東アジア諸語にも視野を広げてみたいと考えている。(文・廣田龍平氏)
次回は8月8日(火)18:30開始、武蔵大学3号館2階 院生GSルームで開催します。